チェスター・ベニントン追悼。さよなら弱者のヒーロー。
いつからだろう。前後すらわからない暗闇に突き落とされ、歩いても進んでいる気がしなくなったのは
いつからだろう。前向きな言葉が、前を向いているだけ。になったのは。
いつからだろう。人聞きの悪い感情を抑えられなくなったのは。
いつだったろう。怒りや悲しみは欠けてはいけない心の一部と教えてくれた人。
チェスター・ベニントン。そしてリンキンパークに出会ったのは。
就活という地獄。
ネットで新卒向けの就活サイトに登録し、説明会の予約をとって、窮屈なリクルートスーツを着て地下鉄の複雑な乗り換えをこなし、会場を目指す。
移動も筆記試験も面接も精神をヤスリがけされている気分。企業からくる封書にはいっているのは不採用通知ばかり。
努力は報われると信じた。信じたかった。でも、世間と自分が思う努力には、マリアナ海溝並の溝があった。
常人の常識に合わせるために努力していた時点で、そいつは社会不適合者。この頃はまだ自分がダメ人間だという自覚がなくて、「気合でなんとかなる」なんて、ごまかして。
膨れ上がる汚いものを心の片隅に押し込むのも限界。ある日異変が起きた。それまで聞いていた音楽を再生しても何も感じない。お気に入りリストは
「明日はきっとくる」「明けない夜はない」「止まない雨はない」と励ますけど
待てど暮らせど昨日と同じ、真っ暗な闇の中を土砂降りの雨が降りつづいている。
苦しい。辛い。わかってるさ。みんな同じだって。でも、飲みすぎたときのゲロみたいに喉元まで上がってくるそれを我慢できない。
夕食どき、一番近い人。家族に漏らしたその愚痴は、気合でどうにかしろ。の一言で済まされた。まるで最初からなかったように。
嫌な事から逃げるな。メディアで流れる前向きな歌詞は、嫌で仕方ない事を我慢できないやつを無視して鳴り続ける。
弱音を吐くやつなんて最初からいなかったみたい。頭の中で誰かがつぶやいたとき、足が止まった。そして気づいた。
この場所は弱虫など存在しない。最近流行りの日常系コンテンツを見ればわかる
主人公に都合の悪いやつは存在せず、怒りや悲しみが徹底的に排除された完璧なユートピア。
自分の人生がうまくいかないのは、個人の努力不足。そう考える人たちは、
二次元の画面を見すぎたせいで、物体には奥行きがある。当たり前の現実を忘れてしまったかのようだ。
平面で見えている物の裏には、こんなにも孤独と、悲しみと、不寛容と、絶望と、不条理で溢れているというのに。
お前だけが辛いんじゃない。そう言葉をかけられるたび、怯えていた。ネガティブなゴミの耳には、「みんな辛いのに、お前だけ愚痴を言うな。甘えるな」
という叱咤に感じる。近しい人々の励ましの言葉が、とてつもなく遠くから聞こえてくる。
虚しい。悲しい。辛い。逃げたい。全てを投げ出して。ごみくずの避難所、あの世への
一歩を踏み出しかけたとき出会ったのが、チェスター・ベニントンだった。
チェスター・ベニントンの死から1年
チェスター・ベニントンが自らの命を絶ってから、一年がすぎた。信じられない。
あの日受けた衝撃が、たった今起こった事のように心臓を跳ね上げる
この件については何回か記事にしてる。
senbeibj59634hu.hatenablog.com
senbeibj59634hu.hatenablog.com
なぜ芸能人。それも海外アーティストの死が、これほどまでに悲しいのだろう。それは
彼が、誰よりも弱者のそばにいたから。だと思う。
リンキンパークの歌詞は全編英語の洋楽だけど、歌っている内容は、打たれ弱い人々のためのものだった。
チェスター・ベニントンは一言で言えば、「かっこよかった」それは、洋楽聴いている俺云々を超えた、もっと直感的な何かだった。
彼らの楽曲に救いはない。ただひたすら、辛い。苦しい。しんどいと連呼する。しかしそこからは不思議と絶望を感じさせない。
彼は怒っていた。何に?かは本人にしかわからない。しかし確実なのは、彼は心にある
その怒り、悲しみを、燃料のように燃やして、暗闇の中を進み続けた。という事。
俺は辛いんだ。俺は苦しいんだ。もうたくさんだ。憚らず叫ぶ事で、現実に真正面から
立ち向かっていた。
それは同じ場所にいる人々に、悲しみと怒りを否定するな。というメッセージ。
負の感情はなくしてはいけない。むしろ必要だ。SNSにはぬるま湯のような発言が溢れているけど、それはインターネットの中だけ。
モニタの前から離れれば、己以外を頼りにできない現実の世界が待っている。
悲しみと怒りが人を前進させる
現在の現実は、暗い感情を恐れるあまり、強い光を当てすぎている。完璧な世界を求めるがあまり、弱者をいないものとして扱う。
現実は厳しい。ここから救い上げてくれる人を待っていても迎えはこない。他人を当てにするから不満が出る。貯蓄、投資、海外移住。自己防衛。基本だよね。
明けない夜を待つのではなく、光の届かない海底でも手探りで進んで行く覚悟を。
たとえ味方などいなくても、自分の道を進んで行く強さを。この、曖昧な寛容の残る、不完全なディストピアを一歩一歩確実に。
最後に、我が人生でも一番過酷な現実を認めなければいけない。
ごみくずの肩を叩いてくれた人はもういない。ここからは、自分の足で歩くしかない。
あなたはもういない。その悲しみを生涯燃やし続ける燃料にして。
さよなら。チェスター・ベニントン。最高にかっこいい、弱者のヒーロー。
「急性死にたい病」突然死にたくなる病気をどう防ぐか。
将来の不安を考えると、自立していけるだけの生活費を稼げる身分にならなくては。でも、同じ職場で一生やっていくのか。と心に聞くと、?が浮かんでくる。
20代もあと数年。「ここは自分の居場所じゃない」こんな幼稚なこと言ってる場合じゃない。なのに頑なに離れない。
甘えてる。解ってる。後ろ指差されるダメ人間の綱渡りみたいな生き方をこのまま続けるわけにはいかない。
でも、この社会と自分の相性の悪さがつくづく身にしみると、進んでも進んでも暗くなるだけの道のりに嫌気がさして死にたくなる。
無駄遣いだって?必要経費さ。
銀行で金を下ろすたびに生きるのがきつい。残額は減っていくばかりなのに引き落とした無駄金は増えていく。
散財した本人を自分でなじっているのだから世話がない。通帳にマイナスという単価が印字されるたび、心まで削られている気がする。
生きづらいのは金がないから。の一言につきる。あなたの冷たい目線を感じるけど、現実を嘆いて何が悪い?
苦しいのは欲望や願望があるから。それを捨てれば楽になれる。って言う人がいるけど
望みもない。なにかを欲する気持ちがないなら、それは死んでいるのと変わらないじゃないか。
金を使わなきゃいい。と言われても部屋の中で無駄以外生まれないルーティーンをこなして、時間を潰すだけの日々には戻りたくない。
「常人は働いている時間だ。なにしてる?」南の窓から刺す日差しに背を向けて横になる。
北向きに寝ると迎えにくるという死神。叱られた頃は遠ざけていた悪役も、無職にはピンチになると現れるヒーローに感じた。
日が暮れる頃にまぶたを開ける。目の前にある光景は一切の苦痛のない楽な場所でも、
針の上を延々歩かされる床でもない。
終わらない責め苦を与えられる。という意味では地獄に近い我が家の天井を見つめながら、この世にはヒーローもヒールもいない。と実感する。
木目の形が悪魔みたいになって、「なぜ生き続けてしまったの?」と問いかけてくる。
答えられない質問をされても困る。正解があるかすら未だにわからないのに。
目のつくところには無職の面影がサブリミナルのように配置されている。その残像に風呂場に沸いたカビだったあの日にひきずり戻される。心が耐えられない。
行き当たりばったりの天体観測を提案するかのごとく外に飛び出す。無職には夜道をウェーイしながら歩く友達はいない。まさに誰も知らない物語。
足を向けるのは都心。ここには地元にある「お前仕事は?」みたいな空気がない。
郊外は平日だと指名手配犯みたいな気分になる。でも、都会だとその時間でも人が多い。
特に上野のあたりは年中初詣か。というくらい賑わっている。街全体がエンドレス縁日みたいな雰囲気。祭りは好きだよ。行ったことないけど。
昼間っから飲んでいる人もいっぱいる。他人の事情なんて知らない。でもここにいると
後ろめたい事情のある奴でも、生きるのを許されるようで、心が弾む。
最近酒を飲むようになった。アルコールは親に禁止されていたから縁があまりなかったけど、口に入れて見れば何て事ない。
昔から外に繋がるあらゆる物を禁止されてきたけど、大人たちは僕にどんな大人になって欲しかったんだろう。
他人との接し方がわからないままで、どうしてヒキニートにならないと思ったんだろうか。
酒を飲んでわかったのは、自分は飲むのが嫌いじゃなくて、飲み会が嫌いなのだ。という事。
孤独は苦痛だけど、一人でいられる時間がなくなるのは嫌だ。それに
今はどうか知らないけど、会社の飲み会で吐くまで飲ませるのはまだ続いているだろうか。
バイトなら断れるけど、正社員だとそうはいかない。しょうもない待遇から出られない理由の一つだ。
それに、酒が入らなくても、日常の中で、結局説教はされる。もっとちゃんとしろ。
とか、親はいつか死ぬぞ。とか、その年で自立しないでどうするとか。
わかってるよ。もし、自立できるだけの金と、自由になれる時間が両立するなら、喜んで出て行くさ。
でもそんなわがままが通用するような世の中じゃないのもわかってる。酔いがいつか冷める。
帰りに乗った冗談みたいな満員電車と、改札を通った後の電車賃。金を消費しただけという現実が、行動の虚しさを暴き出す。
大人は口々に、将来を考えろ。真面目に生きろ。と言うけど、真面目に生きてドブ板に
追いやられた無職からしたら釈然としない。
いや。やめよう。この社会は結果が全てだ。がんばりました。でもダメでした。なんて
誰も聞く耳を持ってくれない。
結局何をしても、人生ってやつからは逃げられない。いや、「人生」なんてでかい枠で囲うからいけない。わからなくなるだけだ
バカ真面目だと疲れちゃう
これまでの行動が全くの無意味か。違う。少しだけど、生きるヒントは得られたと言い張ってみる。
この社会で生きるには多少ダメなところがある。ぐらいの方がいい。バカ真面目に生きてバカをみるのは自分だ。助けはこない。この世にヒーローはいない。
人が多い場所に行けば、それだけ多様な感性が集まる。はなつまみ者でも、生きていけないわけじゃない。この世に悪役などいない。
現実は辛い。この、死にたい。という欲が消えるかわからない。でも、自分で選んだ精一杯の終わり方を実行できるくらいの金が貯まるまでは、生きていたい。
それまでは、自分が無能でも、幼稚でもいい。頭の欠陥や、心の息苦しさや、現実の虚しさを何度暴かれることになっても、生きる環境があるかぎりすがってみる
「ここが自分の居場所だ。」心から言える世界は必ずある。
先の見えない恐怖と戦いながら歩き続ける一本道。それが極楽に通じるクモの糸だと信じて
今日まで生き延びてしまった死ぬべきクズの皆さんへ。
ニートから一念発起してバイトを始めたものの、外の世界の常識人たち接しているとこの社会がいかに窮屈かわかる。
「その年でフリーターとか何を考えているんだ。」
「若いからまだ盛り返せるでしょう。真面目に働きなよ。」
「親に甘えて生きていられるのは今のうちだけだよ」
なるほど。引きこもっていた時、頭の中をぐるぐる回っていた不安を客観的な視点で指摘してくれるとはありがたい。
彼らは夢があるのか。とか、目標を持たなくちゃ。とか言うけど、ニートになるような
人間(いや、「人間」という表現はやめようか。この社会ではニートはゴミ扱いだから)は
生まれてこの方目的など持った事がない。子供の頃、道徳の授業で「自分ノート」なるものを書かされたときを思い出す。
それまでは当たり障りのない答えを書いたが、「自分の将来を描いてみましょう」の問いで、立ち止まってしまった。
頭の中で空想を巡らせても、「自分の未来」がまるで出てこなかった。そしてその行だけ嘘をつけなかった。
そこだけ空白で提出したノート。指導要領に入っていなかったからだろうか。誰からも
お咎めはなかった。
ただ、空白のページに赤ペンで「目標がないね」と担任のコメントが入っていたのを覚えている。
目標がない人間は異常なんだろう。この歳になっても、「なんとなく生きる」を続けて
いると、親切な人が目標を提案してくれる。
職業訓練のパンフとか、資格のセミナーだとか。どれも的外れだ。建前では考えますと。言うけど
やりたい事は一つ。遠くに行きたいんだ。そしてそのまま消えてしまいたい。
自分を取り巻くあらゆる不安が及ばない遠く。
正直、それが達成したなら、そのまま・・・今時珍しい話でもない。
木にロープで吊られたニートを外人がネットで公開するかもしれない。それでも構わない。
自分の最後。美しい海を見る事ができれば。
あの日から7年
生きるのが嫌で仕方ない。人聞きの悪い本音と見てくれだけは健康な体を引きずって歩いているクズにとって、今日ほど生きづらい日はないだろう。
意識していないと時間は信じられない速さで通りすぎていく。この国に住んでいる奴なら誰しも無視できない悲劇から、7年が経った。
メディアは示し合わせたように、あの日亡くなった人々の映像を流す。子供を亡くした親。夫を亡くした妻。孫を亡くした祖父 etc・・・・
皆、守るべき家族や、未来ある若者。この手の話を聞くと、無能ニートにはどうしても
「お前みたいな奴が生きているのは間違っている」と言われている気がしてならない。
常識人の皆さんからすれば信じがたい感想かもしれない。残念ながら自分で手一杯の無職には知人でない人の不幸を思いやる余裕がない。
ただ、無関係ではない。あの日を思い返してみよう。ちょうど二十歳の時だ。名もしれない専門を中退し、潰れかけのバイト先で、社員からのパワハラに耐えていたあの日。
本店に売り上げが悪い。という小言を言われ、怒りのはけ口を探していた社員と二人きりのデスゲーム。
上司に言われた言葉の宛先をすり替えたコピぺをネチネチと浴びせられていると、心は別の内容を考え始める。
タメの奴らは今頃大学に行って、楽しく遊んでいるのに、なんで俺はこんな目にあってるんだ。不公平だろ。
わかってるさ。当然の報いだと。将来設計をちゃんとしていないと、こういう事になるのさ。
そのときだった。カタカタという音ともに、地面が揺れだした。最初はわずかばかりだった振動は次第に増していき、ついには立っていられないほどになった。
戸棚から落ちる商品。慌ててかがむ客たち。僕はといえば、遮蔽物のないレジの前で
禹王さおうしていた。
震源地からはるか彼方の場所で、大した被害はなかった。ただ、その後のテレビで、繰り返し津波の映像を流し、まるで世界の終わりのような予感をさせた。
そういえば、スポンサーがCMを自粛し、AC(アーマード・コアじゃないよ)がこれでもか。と繰り返された。
あの日金子みすずはこの国で一番有名な詩人になった。
その後、原発がどうの。停電がどうの。買いだめショックなどを経て、
「被災地の人たち」の行動が立派だ。と外国から言われた事で
この国はすげぇええの第一次ブームが起きる。
ブーム。というのは一時的なもので、日常が落ち着けば、いつも通りの不満が顔を出す。これを悪い事だとは思わない。
悲しい事が起きなければ実感できない幸せを素晴らしいと言いたくはないから。
人の不幸で喰う飯はうまいか
視聴率を追いかける仕事だから致し方ないとはいえ、メディアはこぞって、インパクトのある映像を欲しがっているように感じる。
そんなに悲劇が欲しいのなら、四六時中葬儀場に張り付いていればいい。天災など起きなくても、この世は毎日、誰かの命日だ。
彼ら他人の不幸で飯を喰う日雇い労働者だ。「数字」が取れないから。ジャーナリスト。この単語はドイツ語では日給取り。という意味があるらしい。
あの日の報道にも、不安を煽り消費を促す。という意図があった。とかなかったとか。
震災ではなく、いつの間にやら、「3,11」という名前がついた。
まるで9,11同時多発テロのよう。あれも今ではすっかり名前も聞かなくなった。まるで最初からなかったように。それとも一時のブームだったのだろうか。
生きてしまったものは仕方ない。
クズを無能呼ばわりする人間たちは、ただ言いたいだけ。なのだ。
人間の言葉の裏には必ず別の意味が存在する。彼らは、叩きやすい奴を吊るし上げて
鬱憤を晴らしているだけ。
それとも、バカって言ったら、バカって言えばいいのか。未だ批判に批判で返している前記事の落語家みたいに。
彼らは甘えるな。というけど、ニートからしてみれば、何もかも上手くいかない気持ちがわからない奴の方がよっぽど甘えている。
現実の厳しさをわからない彼らは、生きるのをなめている。
それでも、文句を言いいたいなら、生きてしまったものは仕方ない。と言おう。
なぜ生きてしまったんだろう。と後悔しているあなたも底辺から見れば
甘くない現実を今日も生き抜いた。偉大な人だと誇りに思う。
「自己責任」を考える。この国に完璧な人などいない。
今年一番の寒さを毎週更新し、より強力な最強寒波が襲来する。まるで少年漫画のパワーインフレのような気候の2月の半ばに、それは起こった。
未だ出口のない寒さとは裏腹にツイッターはある人物の発言で炎上。その最高にホットな発言がこの
世界中が憧れるこの日本で「貧困問題」などを曰う方々は余程強欲か、世の中にウケたいだけ。
— 桂 春蝶 (@shunchoukatsura) 2018年2月20日
この国では、どうしたって生きていける。働けないなら生活保護もある。
我が貧困を政府のせいにしてる暇があるなら、どうかまともな一歩を踏み出して欲しい。この国での貧困は絶対的に「自分のせい」なのだ。
である。
発信源は桂 春蝶(かつら しゅんちょう)氏。これは芸名で、彼は3代目にあたる。職業は落語家とのこと。
この騒動で思い出したのは、人工透析は甘え。発言で炎上したフリーアナウンサー長谷川豊氏だ。
彼はツイッターで、「頑張らずにがんを治そうとするな。」とう趣旨の発言をし、やはり炎上した。
この二人の共通点は二つ。二人共言葉を扱う職業であり、二つめはガソリンをかぶせた青いはとを種火に投げ込んで暖をとるまで、僕はこの二人を知らなかった。ということ。
みなさんもご存知の通り、炎上というのは批判を集めるというデメリットの他に、多くの人から注目を集める。というメリットがある。
これを逆手に取った「炎上商法」なる宣伝方法があるそうだ。ネットの世界は広大である。
まぁ、「憎まれっ子世に憚る(はばかる)」と昔からいうし、掲示板やSNSの出来事なんて、昔からある世間話を文章に残る形にしただけだし、多少はね。
桂氏が炎上商法で名を上げようとしているという前提で話を進めてしまったけど、これがなんの戦略でもないなら、むしろその方がヤバイ。
こちらの一方的なイメージだけど、落語というのは、その社会の世相を笑い話にする。
という古典芸能だと思っていたけど、違ったようだ。
彼のツイートにはユーモアがないと感じてしまう。今回もそうだけど、どれもこれも、
朝礼の校長先生か、ゼミで後輩に知識をマウントする大学生を思い出す。
こんな話を聞いて誰が面白が・・・・いや、やめておこう。これ以上は、ブーメランwwwが大好きな人たちが喜びそうだ。
そんな三流クソブロガーは落語をCDでしか聞いたことがない。ただ、立川志の輔氏や柳家喬太郎氏。は面白いかった。
志の輔氏は健康番組の司会者。というイメージで、彼の創作落語を聞いた時は、「がってんしているだけの人じゃなかったのか」と思ったけど。
ご当地ゆるキャラを題材にした、「モモりん」スマホ依存をテーマにした
「スマ中」はオチが素晴らしい。
時代を反映した。といえば、ブラックユーモアを感じさせる柳家喬太郎氏の「国民闇年金」は面白かったし、古典?と呼べばいいのかわからないけど
「もう半分」は人間の浅はかさが深く描かれている。特に志ん朝氏のバージョンが好きだ。
話が長すぎて、「要点を言えよ」とイライラしている人のために答えを出そう。
彼がどのような思想を持っているかは問題ではない。ただ、「落語家」という職業であるからには、落語でその考えを示してほしい。
それにしても、落語。というは、人間って完璧な生き物じゃないよね。嫌なところもあるよね。という暗い部分を笑いにするもの。
人間はロボットではない。誰もが品行方正に生きていけるわけではない。
人間臭い部分を、人情と呼ぶ芸能だと思っていたけど、どうやら違ったらしい。
何れにしても、
自分の話で金を得ている以上、自分が扱う言葉には最新の注意を払わなければならない。
そんな、落語家の自己責任を欠いた彼に、自己責任を語る資格があるか。疑問が残る。
自殺しようとしている人へ。自殺のメリット、デメリットを教えよう。
前回の記事でこの国はなぜ自殺大国なのか。そして、なぜ人は死にたがるのか。について考えた。
考察。といっても、統計や社会学を応用したデーターに基づいて、結論を出すようなまともなブログではなかった。
「答え」を求めやってきた人には、時間の無駄だったろう。当たり前だ。現実に降伏してはいけない理由なんて、こっちが知りたいくらいだもの。
そこで今回は、「自殺」をより掘り下げ、自殺のメリット、デメリットを考えていく。
今のうち断っておくけど、今回も客観的な事実があるわけではない。知性にあふれた見解を求めている方は自殺論でも読んでくれ。
「 自殺」のメリット
あなたは明日がくるのが嫌で仕方ない。と思ったことはないだろうか。眠っているうちに心臓が止まってくれれば良い。と願ったことは?
もしくは眠ろう。としても眠れなかったことはあるだろうか。ここで眠ったら明日がくる。そう考えると眠ることを心が受け付けないような感覚を覚えたことは?
睡眠をとらないからといって、日付変更線がずれるわけもないし、時計の針は戻りはしない。一秒ずつ確実に悪夢は現実へと近づいていく。
いつからだろう。「明日」が避けがたい恐怖になってしまったのは?子供の頃の自分は明日は何して遊ぼう。どんないい事があるだろう。
未来は希望に溢れていた。目に見えない誰かが微笑みながら見てくれているような気がしていたから。
毎日が楽しくて仕方なかった。学校も、帰ってからのTVも。ちょうど2000年問題やら、
ノストラダムスやらが流行りで、「地球が消滅する理由はこれだ!」と繰り返していた
チープな再現ドラマを見るたびに青ざめていた。あの頃は世界に終わりなど望みはしなかった。
今は逆に、世界が終わらない現実を思い知って青ざめてるけど。
信じられるかい?こんなジメジメした記事書いているやつにだってあったんだよ。幸せな時が。
あの時、住んでいた家があった場所。もう跡形もなく、今は味もそっぺもない無個性なマンションが建っている場所を見つめる。
あったんだよ。ここに、ただいまと言ったら、にこやかに迎えてくれる人たちがいた場所が、何の取り柄もない奴でもいてもいい。と笑えた場所が。
そんな叫びが喉元まで出かかって止まったのは、吐瀉物でも見るかのような目線を向ける警官と目があったから。
そうだよ。これが現実だ。ゴミを許容する余裕のあった世界はもうない。どんなに大きな間違いを犯しても、「ドンマイ」と言ってくれた人たちは、もういない。
日が経つにつれ、時が進むにつれ、険しくなっていくだけの坂道。それを登る
元気が、生きていたい。という気持ちが、日に日にしぼんでいく。
目をそらそうとも、耳を塞ごうとも、未来を不安にする情報や、暗い現実が突きつけられる。
「この先どうするの?」そんなこと知るか。
「いい加減に生きていけるのは若いうちだけだよ」
真面目に生きたんだよ。生きてこれなんだよ。
「もっと頑張らなきゃ、将来苦労するよ」
これ以上、何をどうがんばればいいんだよ・・・・
社会の常識人からの罵声。未来への不安。試合終了の合図のような目覚ましの音。
もうたくさんだ。何もかも。
これらを感じなくなるために手っ取り早く、かつ確実な方法が
自殺だ。
自殺は何も感じなくなる事、苦痛も、苦悩もない、死を迎える事で、未来への不安から逃れる事ができる。
よく、今は辛くてもいつか良くなる。という人がいるが、どうしてそんな約束ができるのだろう?
「いつか良くなる」その言葉を信じて生き抜いた今日が、最悪の未来だというのに。
死は可能性の否定だ。自殺のメリットは、良くなるか。悪くなるか。その可能性を否定する代わりに、それ以上の苦痛を感じなくなる。
無感。それが自殺のメリットだと言える。
自殺のデメリット。
自殺してはいけない理由。いの一番に、「あなたが死ぬと悲しむ人がいる」という文句を耳にする。しかしこれは
自殺する本人ではなく、自殺された他人のデメリットだ。
この記事では死んだ本人のデメリットを掘り下げるため、今回は除外しておく。
生ける屍になってしまうケース
自殺。自らを殺すと書く以上は、殺害手段が必要だ。よく挙げられるのは、首吊り、飛び降り、またしても銃乱射事件があったアメリカでは、オウンゴールならぬ、オウンヘッドショットなどがある。が
実はどの手段でも、確実に死ぬ事ができない。
という事実を、皆さんはご存知だろうか?首吊りでは、脳に血や酸素を送らなくする事で、死を迎えるが、早期に発見され、その時間が十分ではなかったため
中途半端に脳がダメージを受け、植物状態になったケースや、バイアグラ100m男の制止を振り切り、崖の淵から飛び降り、全身を強打したものの
肝心な臓器にまでは至らず、そのまま下半身付随になり、生き残ったケース。最後に、
銃が人を殺すのではない!人が人を殺すのだ!
がスローガンの自由の国では、頭を吹き飛ばしたものの、頭蓋骨と神経の間で弾が止まり、眼球を片方無くした、ゾンビのような姿で生き残ってしまったケース
などがある。
楽になろうとして、さらに地獄にはまってしまっては元も子もない。ネットでは安楽死施設を求める声も多いが、企画が持ち上がった段階で批判されて終わりだろう。
宗教上の理由で禁止(あまり勧めない)とされているケース
釈迦が自殺志願者に、自殺すれば今よりより酷い世界で生まれ変わる。という教えを
とき、思いとどまらせた。
というエピソードは有名だ。もちろんこれには諸説あり、そんな事実はない。といえばない。
仏教での自殺の禁止は明確ではないが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった宗教御三家では、概ね罪とされ、イスラム教では、地獄に行く。とされる。
ただ、これは死後の世界を信じる信心深い人々のための教えだ。この国に多い無宗教の
人には関係ないだろう。
天国がどんな場所かもわからないように、地獄がどんな場所かもわからない。
なぜなら死んだ人間は帰ってはこないのだから。
ここまで自殺のデメリットを考えてきたが、どれも生き残ってしまった場合に起こる不具合だと思う。
当然だ。生きることは苦しい。だから死にたいのだ。
命の安っぽさ。
SNSでは、死ぬくらいなら逃げろ。という意見が散見するけど、少し距離を離して、某巨大掲示板にいけば
「死にたい」という書き込みにあらん限りの冷笑が向けられているのを見れば、現実の冷たさが理解できる。
最近話題のみなし労働性。ネットでは、「批判しているやつは無能」「売国奴」などと
いった書き込みがある。
彼らは自分たちをなんだと思っているのだろう?一労働者か。それともシン・ゴジラの見すぎで、自らをこの国のエリートと勘違いしたオタクか。
僕らは、殺されるシーンすら映らない瓦礫の下敷きになっている市民だとなぜ気づかないのだろう。
何かを変えなければならない。この社会全体が。それは、たとえ昼間っから酒飲んでドラッグをやっている奴がいようがなんとかなるさ。
と開き直れるほどの。それが幸福に見えるのは、気のせいではない。
この世界は冷淡で過酷だ。それは揺るぎない事実だ。それはこの先も変わらない。
ただ、こんなクソブログや社会が、いくら自殺しろ。と言っても「はい。わかりました。」なんてなるような
あなたの命は、そんな陳腐な物ではない。
『自殺』を考える。死にたい気持ちはなぜ否定されるのか?
あなたが「死にたい」のは思い通りにいかないから。他人が自殺する人を引き止めるのは不愉快だから。
苦しいなぁ。悲しいなぁ。辛いなぁ。生きるためにしなければならない事をしている。はずなのに、心は窮屈で息苦しくなっていく。
人生は甘くない。生きることは苦労の連続だ。そんな事わかってるさ。逆にわかりきってるから、死にたくなるんだろ。
辛いのはみんな一緒だ。生きるのは大変。でもそんな思いをして、生きていかなきゃいけない理由。ってなに?
未来に不安や孤独しか感じられないこの場所に止まらなきゃいけないのはなぜ?まったくわからない。
死にたい。こういうと、死んではいけない。とみんな言う。「自殺」で検索すると、まず自殺防止のサイトが映るくらいだ。
しかし、この流れに疑問が残る。なぜ「自殺」してはいけないのだろう。自分の人生に
自分でケリをつけるのはなぜタブーなのだろうか。
人はなぜ「自殺」したがるのか
働きたくねぇ。理由は多すぎるくらいだけど、一言だけにするのなら、「窮屈だから」
息苦しい8時間労働を過ごす狭苦しい室内。
今日もあーだこーだと小言を言われやりたくない単調な作業をこなし、自分がここにいる意味を問い出す心の声を押し殺す日々が始まる。
見上げると天窓から空が見える。遠くに小さく飛行機が見えるほどの青空にバカにされているような気がする。
著しく精神を害した人でなければ、人間は不機嫌な時に起きた出来事をなんでもネガティブに捉える生き物なんだろう。
イガイガした気持ちを抱えながらも、白いラインを引きながら遠ざかっていく飛行機を羨ましく思う。
あれに乗れたらどんなにいいだろう。今ある窮屈さを捨てて、どこか遠い場所に行けたらどんなに・・・
意識が遥かぁかぁなぁたああああああああ!アジカンのデビュー曲っぽく叫んでみるほど飛ばしていたら、サボるな。と怒られて現実に帰る。
わかってるさ。ここじゃないどこかに行ったところで何も変わらないのは。環境を変えるなんて一時しのぎ
第一、そんな金はないし、自分探しなんて意味がない。この世界のどこに行こうとも
ニートには生きづらい世界が広がっているだけ。
そう考えると、急に死にたくなる。こんなに頑張っているのに、どうしてもこうも、うまくいかない。
どうしてこんなに窮屈な思いばかりしなければならない。なぜ自殺したいのか。要は自分の思い通りにいかないから。
そして、心が悲鳴をあげているのに、その場所に留まるしかない現実。それが延々続く未来に絶望した時、そうまでして生きて行きたくない。という答えが勝った瞬間に
人は自殺するように見える
この国が自殺大国なのはなぜだろう?
意外に思うかもしれないが、この国の自殺率は国際基準だと、3位以内ではない。自殺率は以前高い。とはいえ、減少傾向にあるという。
しかし、それは統計だけで、世代別で見ると、10~20代の自殺率が高い傾向にある・・・らしい。
日々更新される絶望を煽る情報。働けど、働けど、楽にならざる生活、あーしろ。こーしろ。という周囲からのプレッシャー。
なぜ自殺するのか。希望がないから。としか言えない。この国に明るい未来を描いている人間などいるのだろうか。
誰もが思っている。でも口にしない真実を語ろうか。この国は終わりに向かっている。
クラークの幼年期の終わりじゃないけど、穏やかに死にかけているのだ。
さざれ石の巌が苔むすまで続いたらその先はどうする?どうなる?答えは一つだけ。
砂に帰るのだ。
自殺は悪なのか?
よく、この国は真面目すぎる。と言われて、比較対象にされる国、例えばメキシコをあげる人はいるけど
あの国の犯罪率の高さをご存知ないのだろうか。
メキシコ国境の町フアレスでは、ギャングに逆らった町人が見せしめのために殺され、逆さ吊りにされる光景が日常茶飯事だ。
フアレスでは麻薬取引が盛んに行われており、それを取り締まる警官は兵士と遜色ない
装備を身につけている。
「メキシコ麻薬戦争」と言われるほど、この地域は治安が悪い。
他にも、自殺率の低い国では、犯罪率や貧困率が高い傾向にある。要は自殺率が低い代わりに、他の原因でバランスをとっているのだ。
そこに安寧など、ない。
よく、自殺する人、特に仕事が辛くて。という原因の人に、「死ぬくらいなら、逃げればよかったのに」
という輩がいるが、とても無責任だと思う。
逃げてどうなる?逃げた先でどうやって生きていくのか。それを示せないのに、ただの感情論を振りかざしてはいけない。
特に最近は一度ドロップアウトすると、再就職するのは、宝くじを当てるほど困難だ。
僕は、リーマンショックに始まった就活の辛さを理解している。つもりだ。数十社の企業にエントリーシートを書き、面接を受けたが
どこもかしこも、お祈りされるばかりだった。
あまりにも辛くて逃げ出したが、逃げてよかった。となるほど現実は甘くない。
履歴書に書かれた学校中退の行。
まともな会社は受からず、働けるのは、まともじゃない会社。いや、この世にまとも
な会社なんてないのでは。
そもそも、この国は昔から、自分で責任をとる、切腹の文化が根強い。外国では生きるために犯罪に走ったり、ドラッグやアルコールに手を出したり・・・
それに比べれば、この国の人々のなんと潔いことか。この国の治安の良さは、自殺率の高さと共に歩いている。といってもいい。
誰にも迷惑をかけず、自分のケツを自分で拭く。素晴らしいじゃないか。
やはり、自殺を否定する理由は見当たらない。そうでなければ、仕事の辛さには切れた人々が明日から暴徒と化し、町を破壊するだろう。
あなたが完全武装した警察官が24時間張り付いていなければ治安が保てない狂気の国に
住みたい訳でもない限り自殺を否定する理由はない。
逃げてはいけない理由がないなら、 生きなくてはいけない理由もない。
そもそも、恥や外聞を捨ててまで、生にしがみつく理由があるだろうか。どんなに醜くても、どんなに無様でも。
人はいうけど、それを実行している人間はいるのか。その光景を知っているのか。僕は知っている。
寝たきりになり、自分が誰なのかもわからず、排泄物を壁に投げつけていた人。筋肉が徐々に固まって、最後には動けなくなる病気に侵され、その恐怖に怯えながら
生きなければならなかった人・・・・・
無様に生きた先には、死を望むほどの苦痛があることを知らないのだろうか。それとも
大衆に受けるために、耳障りの良いことを言っているのだろうか。
どちらにしても、言えることは一つ。人間の命は、あなたが思っているほど、特別ではない。とるに足らない存在だ。
深刻に考える必要はない。自分の命は、自分のために使えば良い。
社会のレールから外れて、舗装されていない地面を歩くのは、過酷だ。
ただ、レールに乗っているだけでは見えない景色もある。
クソブログは永遠に不滅です。
今週のPV数はいくつか。貼った広告収入はいくらか。ブロガーなら誰でも気になって仕方ないだろう。
ブログの価値は数字じゃない。大衆や金のためじゃなく、己のために書いている。なんてカッコつけてみるけど
髪をかきむしりながら書いた記事。誰か共感してくれる。期待に胸を膨らませて開いたブラウザ。読み込んだページに表示されるアクセス解析の数字は、ゼロ。
なんだ。興味ない。とかクールな態度とってるくせに。気になってしかたないんじゃないか。
まるで拾ってきた成人誌で盛り上がるクラスメイトをすかした目で見つめながら、耳をそばだてている中学生のようだ。
毎日書いても、工夫をした(つもり)でも、誰にも気づかれない。誰も応答しない。声を限りに叫んでも、結果は同じ。
ゾンビ化するウィルスにより、人類が絶滅した世界に生き残り、生存者がいると信じて無線機で呼びかけている・・・・
映画、アイ・アム・レジェンドを思い出す
批評家には受けが良くなかったようだが、個人的には最高の映画だった。もちろん、ウィルスミスファンの欲目もあるけれど。
しかし、ハリウッドスターでもないクソブロガーの書く記事などいくらやっても結果は同じ。なぜだ!?なぜなんだ!?
で、忘れた頃に訪れたブログは、いつも消滅している。
「諸君らが愛してくれた(はずの) ブログは死んだ!なぜだ?」
「クソブログだからさ。」
クソブログとはなにか?その定義とは?
ブログをクソ化させる物とはなにか。何をもってクソブログとするのだろう?画面の向こうのあなた。
もしや自分をディスられているのでは。怒りのボルテージを燻らせている読者のために、一般に言うクソブログを定義していこう。
自分の感想も特に述べず、粛々と気になったリンクを”メモメモ”と一言添えてあるだけのブログ
出典元にはそのほかに、SNSや掲示板に書く必要ない、空気の読めない、独りよがりな
書き込みに対するスラング
いわゆるチラシの裏。に当てはまる。
その他、色々なクソブログ批評を調べていった結果、一つのキーワードが共通していた。それは
「他人のウケ狙いをしていない記事。他人の目を気にしていないブログ」をクソブログという。
さらに厳密に言うと、それを見ても生活の知恵になるような内容でもなく、見終わって楽しめる内容でもないブログ。
なるほど。バラバラだった線が一本につながった。
まだつかめない。という人にヒントを出そう。今あなたが目を通している記事。
まるでクソブログのお手本のようじゃないか。
人はなぜクソブログを書いてしまうのか。
新聞屋の原付のエンジン音がする。もう2時か。決まった時間に聞こえる音のおかげで、時計を見なくても時間がわかるようになった。
眠れない。夜更かしをしたつもりはない。今日。いや、時間的には昨日か。は10時には床に着いた。
でも、眠れない。この時間になる。という事は、朝まで眠れない。長い。約7~8時間、
眠ってくれ。頼むから。と念じながら目を閉じているのは。
辛い。眠れないまま仕事に行くのが。朝と夜の境目がわからなくなったような感じのまま、仕事場に向かうのが。
うるさい。眠れない夜のあの時計の音が。辛い。この音が原因なのか。と電池を引っこ抜いた。状況は変わらなかった。
辛い。アナウンスと共に来る電車に乗るのが。いつもイメージする。車体がホームに止まる前に前に出ればいい。そうすれば、この悪夢が終わる。
たった一歩。なぜ前に出ない。足を踏み外せばいい。なぜ出来ない。あと一回だけ間違えればいい。
慣れっこだろ?間違えしか犯した事がない君には。
誰かが言う。もうたくさんだ。と、お前の人生の、ここが終点だ。と、お前にしては頑張った。十分すぎるほど。
なのに。。イメージが途切れる。結局電車に乗ってしまった。
もう終わりにしたいのに。このクソ人生を。
終われる。と思ったとき、いつも止まらせるのは、「ここじゃない。」という言葉。
「お前は終わってる」
わかってるさ。でも、クソ人生の最後に見る景色が、こんな薄汚れた灰色の空だなんてどうして認められるとだろう。
終わってる。わかってる。でもここじゃない。ここじゃないんだ。生きていたい訳じゃない。けど、今すぐに。じゃない。
終わらせるのは、まだ先だ。ずっと、もっと遠くまで。そんなポエムを思いつくと、大急ぎでメモして
キーボードを叩いている。書くと楽になる気がして。ただ、人に共感されたい。という気持ちは捨てた。
クソニートが日頃の不平を嘆いたところで何になる?わかる。わかりまくり。
わかりま、クリスティアーノ・ロナウド。とはならない。
信頼出来る情報筋からの若者言葉の最前線を使ったところで、まるで面白くない。
これがクソブログの限界。ならばなぜ?
文章を打ち込むときは、世界への復讐のつもりで書いている。まるで戦車に石を投げる子供のような気持ちで。
それでなんになる訳でもない。何も変わるでもない。
それでもクソブログを続ける理由。
この世界は重く、大きく、冷たい鋼鉄製の歯車に例えられる。それは社会という篩(ふるい)からこぼれ落た弱者をすり潰しながら周り続ける。
問題なのは、歯車自体がさび付いて、動きが悪くなっていることだ。ふるいにかけている彼らもそれには気づいている。
ただそれをどうしようとする訳でもない。人肉の着いた鉄なんて誰が掃除したがる?
その場に上流階級()しかいないのなら特に。
世界は残酷だ。真実は悲惨だ。この社会は少数派を生かすためにはできていない。
取るに足らない奴らが消えても誰も気にしない。
だからここにいる。このブログは、この社会の闇に消えていった人々への鎮魂歌だ。
太陽が沈み、夜とともに、寒さが降りてくる。暗闇の中、外でうごめく生ける屍の影に
怯えながら、朝が来るのを待っている。
私はせんべい。はてなブログ最後のクソブロガー。
この声が、同じように震えている誰かに届くことを願う。