キリギリスはなぜ死んだ?

誰の目にも止まらない人々の、言葉に出来ない魂の叫びを綴るブログ。

今日まで生き延びてしまった死ぬべきクズの皆さんへ。

ニートから一念発起してバイトを始めたものの、外の世界の常識人たち接しているとこの社会がいかに窮屈かわかる。

 

「その年でフリーターとか何を考えているんだ。」

 

「若いからまだ盛り返せるでしょう。真面目に働きなよ。」

 

「親に甘えて生きていられるのは今のうちだけだよ」

 

なるほど。引きこもっていた時、頭の中をぐるぐる回っていた不安を客観的な視点で指摘してくれるとはありがたい。

 

彼らは夢があるのか。とか、目標を持たなくちゃ。とか言うけど、ニートになるような

人間(いや、「人間」という表現はやめようか。この社会ではニートはゴミ扱いだから)

 

生まれてこの方目的など持った事がない。子供の頃、道徳の授業で「自分ノート」なるものを書かされたときを思い出す。

 

 

それまでは当たり障りのない答えを書いたが、「自分の将来を描いてみましょう」の問いで、立ち止まってしまった。

 

頭の中で空想を巡らせても、「自分の未来」がまるで出てこなかった。そしてその行だけ嘘をつけなかった。

 

そこだけ空白で提出したノート。指導要領に入っていなかったからだろうか。誰からも

咎めはなかった。

 

ただ、空白のページに赤ペンで「目標がないね」と担任のコメントが入っていたのを覚えている。

 

目標がない人間は異常なんだろう。この歳になっても、「なんとなく生きる」を続けて

いると、親切な人が目標を提案してくれる。

 

職業訓練のパンフとか、資格のセミナーだとか。どれも的外れだ。建前では考えますと。言うけど

 

やりたい事は一つ。遠くに行きたいんだ。そしてそのまま消えてしまいたい。

自分を取り巻くあらゆる不安が及ばない遠く。

 

正直、それが達成したなら、そのまま・・・今時珍しい話でもない。

 

木にロープで吊られたニートを外人がネットで公開するかもしれない。それでも構わない。

 

自分の最後。美しい海を見る事ができれば。

 

あの日から7年

生きるのが嫌で仕方ない。人聞きの悪い本音と見てくれだけは健康な体を引きずって歩いているクズにとって、今日ほど生きづらい日はないだろう。

 

意識していないと時間は信じられない速さで通りすぎていく。この国に住んでいる奴なら誰しも無視できない悲劇から、7年が経った。

 

メディアは示し合わせたように、あの日亡くなった人々の映像を流す。子供を亡くした親。夫を亡くした妻。孫を亡くした祖父 etc・・・・

 

 

皆、守るべき家族や、未来ある若者。この手の話を聞くと、無能ニートにはどうしても

「お前みたいな奴が生きているのは間違っている」と言われている気がしてならない。

 

常識人の皆さんからすれば信じがたい感想かもしれない。残念ながら自分で手一杯の無職には知人でない人の不幸を思いやる余裕がない。

 

ただ、無関係ではない。あの日を思い返してみよう。ちょうど二十歳の時だ。名もしれない専門を中退し、潰れかけのバイト先で、社員からのパワハラに耐えていたあの日。

 

 

本店に売り上げが悪い。という小言を言われ、怒りのはけ口を探していた社員と二人きりのデスゲーム。

 

上司に言われた言葉の宛先をすり替えたコピぺをネチネチと浴びせられていると、心は別の内容を考え始める。

 

タメの奴らは今頃大学に行って、楽しく遊んでいるのに、なんで俺はこんな目にあってるんだ。不公平だろ。

 

わかってるさ。当然の報いだと。将来設計をちゃんとしていないと、こういう事になるのさ。

 

そのときだった。カタカタという音ともに、地面が揺れだした。最初はわずかばかりだった振動は次第に増していき、ついには立っていられないほどになった。

 

戸棚から落ちる商品。慌ててかがむ客たち。僕はといえば、遮蔽物のないレジの前で

禹王さおうしていた。

 

震源地からはるか彼方の場所で、大した被害はなかった。ただ、その後のテレビで、繰り返し津波の映像を流し、まるで世界の終わりのような予感をさせた。

 

そういえば、スポンサーがCMを自粛し、AC(アーマード・コアじゃないよ)がこれでもか。と繰り返された。

 

あの日金子みすずはこの国で一番有名な詩人になった。

 

その後、原発がどうの。停電がどうの。買いだめショックなどを経て、

「被災地の人たち」の行動が立派だ。と外国から言われた事で

 

この国はすげぇええの第一次ブームが起きる。

 

ブーム。というのは一時的なもので、日常が落ち着けば、いつも通りの不満が顔を出す。これを悪い事だとは思わない。

 

悲しい事が起きなければ実感できない幸せを素晴らしいと言いたくはないから。

 

人の不幸で喰う飯はうまいか

 

視聴率を追いかける仕事だから致し方ないとはいえ、メディアはこぞって、インパクトのある映像を欲しがっているように感じる。

 

そんなに悲劇が欲しいのなら、四六時中葬儀場に張り付いていればいい。天災など起きなくても、この世は毎日、誰かの命日だ。

 

彼ら他人の不幸で飯を喰う日雇い労働者だ。「数字」が取れないから。ジャーナリスト。この単語はドイツ語では日給取り。という意味があるらしい。

 

あの日の報道にも、不安を煽り消費を促す。という意図があった。とかなかったとか。

 

震災ではなく、いつの間にやら、「3,11」という名前がついた。

まるで9,11同時多発テロのよう。あれも今ではすっかり名前も聞かなくなった。まるで最初からなかったように。それとも一時のブームだったのだろうか。

 

 

生きてしまったものは仕方ない。

 

クズを無能呼ばわりする人間たちは、ただ言いたいだけ。なのだ。

 

人間の言葉の裏には必ず別の意味が存在する。彼らは、叩きやすい奴を吊るし上げて

鬱憤を晴らしているだけ。

 

それとも、バカって言ったら、バカって言えばいいのか。未だ批判に批判で返している前記事の落語家みたいに。

 

彼らは甘えるな。というけど、ニートからしてみれば、何もかも上手くいかない気持ちがわからない奴の方がよっぽど甘えている。

 

現実の厳しさをわからない彼らは、生きるのをなめている。

 

それでも、文句を言いいたいなら、生きてしまったものは仕方ない。と言おう。

 

 

 なぜ生きてしまったんだろう。と後悔しているあなたも底辺から見れば

 

甘くない現実を今日も生き抜いた。偉大な人だと誇りに思う。