キリギリスはなぜ死んだ?

社会に、いらね。と言われた奴の最後のあがき

死にたい気持ちとの付き合い方

楽な死に方。と打ち込むと

検索エンジンがまるで

コケた子供に騒ぎながら駆け寄ってくる

おばさんみたいにいらない世話を焼いてくる。

 

あなたが死んだら誰かが悲しむ。とか

悩まないで相談してください。など

そういうマニュアルがあるのか?と勘ぐりたくなるほど

同じような文句が並んでいる。

ガチで死を考えている人間には何の頼りにもならない。

 

どうしても救いたい。というなら、金をやればいい。

その昔、まだ家なき子だった頃の安達祐実

「かわいそうね〜」とお情けをかけた大人に

「同情するなら金をくれ!」と声を張り上げていた。

 

金以上に価値があるものって?

金があれば幸せになれるとは限らないが、不幸を取り除く事はできる。

 Twitter詠み人知らず

もっともだ。

人間の社会に「金」以上に価値がある物はない。

金があればなんだってできる。

少なくとも、上っ面の言葉をかけるより現実味がある

希望を捨てきれないから始末が悪い。

いつも散弾銃で頭を吹っ飛ばしたい。

とは言うものの

現物があれば、引き金を引くだろうか。

できっこない。

 

そんな物日本で手入るわけがない。あなどっている。

  銃があればサクッと楽になれるのにっていう

言い訳がしたいだけ。

 

本当は死ぬ事が恐ろしい。

口では死にたいとこぼすけれど、実行しない

ずるずる生き続ける自分を殺したいほど憎いのに

 

 僕はまだ、自分が終わっている事を

心の底で認めていない。

まだなんとかなる。そんな浮かれた気持ちがある。

まだ20代だから、と言い訳をして

どうせこのまま過ごして30代になるだ。

それでようやくあわてだすんだろう。

冬になってから物乞いに行くキリギリスのように。

 

自殺はなぜしてはいけないのか?

自分の未来

起こっているのは他人事。だけど

飛び降り、首吊り、人身事故

明日、僕が同じ事をしない。と、どうして言い切れる?

こうなるんだ。と言われているみたいな

不安を覚えるのはなぜだろう。

 

ぼく以外いなくなった教室で

バカ以外わかって当然の問題に頭をひねる

クラスメイト達が座っていた机を涙目で見つめながら

今頃楽しく遊んでいるんだろうかと考えると、

とても損をしているような気分になった。

 

それと同じで、自殺者のニュースが

今生きている事がこの世に置き去りされた感じがする。

 

 葬式代の問題。

みなさんもご存知のとうり、葬式というのはとにかくお金がかかる。

 

 

http://so-labo.com/funeral-familys-buddhist-altar/5027/so-labo.com

式場のレンタル代、飲食接待費だけでも200万

位牌に戒名を入れるとまさかの20万!

さらには坊さんにやるお気持ち

そもそもお気持ちってなんだよ

 

チップって言えばいいじゃん

 

なんでそんな物。

坊さんには給料がないのだろうか?

気持ちとか忖度とか

バカジャネーノ。

 

 

こんなに金がかかるなら

僕の葬式は必要ない

灰にしてさっさと海に流してほしい。

 

 

「してはいけない」のではなく「して欲しくない」

二度と悲しみも苦しみも感じなくなる事が

背負いきれなくなった荷物を降ろせる唯一の選択なら

むしろ本人にとってこれほどの幸福はないのでは。

 

 デメリットは他人の方が大きい

 

 「周りの迷惑を考えろ」

「この世には生きたくても生きられない人が〜」

結局のところ

「お前の命は大事じゃないし、いつ死んでも構わないが

周りに負担がかかるからやめろ」

というのが本音だろうか。

 

金の問題もあるけれど・・・

なにより、心に傷を負う。

「あのときこうしておけば」「もっとああしておけば」

後になって悔んでも二度と取り返せない。

一見生きた人間と別れるのと同じようだが

相手が死んでいると大分違う

普通の死でもかなりきつい。これが自殺者だったら?

とても想像したくない。

 

 

苦痛と幸福の等価交換

人生の意味とは

答えなどない問いばかり考えていたけど

僕が知りたいことは

本当に「人生」の意味だろうか。

 

違う。

 

僕が知りたいのは、人生に必ずついてくる副産物

心臓を握り潰されるような息苦しさや

理由もわからず込み上げてくる涙と

まだ生きてたのか。となじられる眠れない夜が

目もくらむほどの黄金と交換できる価値が

苦痛と幸福は比例する物だと信じたいのだ。

 

それが意味がない。と知るのはとても怖い。

もしあるとしても、

僕は皮算用をしている。

僕の感覚は世間とこの上なくズレていて

他人にはかすり傷で、大げさに痛がっているだけに見えるのだろう

まるでわざと倒れてフリーキックを得ようとする選手のように

 

どの程度の傷をおえば、世間は幸福をくれるのだろう。

その傷は僕に耐えられるだろうか。

 

 生きるとは罰である。

 映画インファナル・アフェア

ラストは悪事を冒かす事に苦悩する警官が死に、

善人になろうとするマフィアが生き残った。

なぜなら、死とは、苦しみからの解放であり

生きる事は、無限に続く苦しみの道を歩いて行く事。

ある意味死ぬよりも重い罰なのかもしれない。

罰せられる人が善人であるなら。

 

どこかで聞いた事がある

 

生ける人は皆、罪人

 

ならぼくの罪状は?

罰せられる理由を教えてくれ

納得できるかは別にして

生きてる事が辛いなら。


森山直太朗 - 生きてることが辛いなら

 

 最後に 森山直太朗の名曲から引用したい。

この世に居場所がない。生産性もない。

でも生きていたい。誰に後ろ指さされようとも

 

 僕が罪人で、この世界が塀のない刑務所だとしたら、

人生は刑期。

期限を決めるのは僕自身だ。

まだ半分も終わっていない。

まだ許されない。

だから苦しみぬいて

生ききった!と腹の底から言える時がくるまで

 

くたばる喜びはとっておこう。