キリギリスはなぜ死んだ?

社会に、いらね。と言われた奴の最後のあがき

命の選別

なんの話かって?ただの不幸自慢さ。

 

母さんが死んだ日のこと、あの日も暑かった。

数件の病院をたらい回しにされ、辿り着いた名も知らない街の病院の会議室で、

僕とおばさんは、命の選別。人間が生きている定義を考えることになった。

 

僕らの向かいに座った江口洋介のコスプレをしている中年男性は言った

今なら、股の間から管を通して機械の力で心臓を動かすことができる。

「喋れるようにはなるのですか?」

「なりません」医者はVtuberの答えを否定する小峠のごとく力強く答えた。

「それは死んでしまった」ということですか?

 「なにを持って生死を判断するのかは、今の医学でも大変難しいことです。」

江口は便所サンダルから覗く糸くずがくっつきまくった靴下の親指をモゾモゾさせ

ながら続けた。

集中治療室に寝ている母さんは生きている。医学的には。

みそからは体に生きろという命令を出す電気の信号を発しているが、

次第にその信号はなくなる。脳みそから命令がなくなったら、次は心臓が止まる。

心臓が止まれば、肝臓、膵臓、腎臓・・・・他の臓器に血が送れなくなり、

腐ってしまう。医学的には、死ぬことになる。

それを止めるか否か。雲の上に向かっている人の手を、無理やり引き止めるのか。

もう二度と、おはようともお休みとも言えない人を。

その場の時間がクロックアップした。

誰でも同じだろう。大切な人は生きづつけると思っている

生きていてほしい。と願っている。当たり前だ。

じゃあ君は、明日から空気がなくなります。と言われたらどうする?

いきなり始まった新しい生活習慣で、マスクをしているだけでも息苦しいのに。

 

なにを持って生きているというのか。

 もう起き上がらない人の体に管を通して、機械の力で心臓を動かして・・・・・

 おはようともお休みとも言えない人を、生きていると言えるのか?

 例えば、体が動かない人だろうと、ベット付きの車椅子に座っている人だろうと

 「生きたい」の意思表示ができる限り、その人の生存を脅かす権利は誰にもない

 だが、逆に、「生きたくない」人がいる現実から目を背けてはいないか?

五体満足の人でも、もう生ききった。その人生を全うした。という人は山ほどいる。

 わかりやすい弱者の意見に引っ張られて

見た目にはわからない、目に見えない弱者の言葉を聞き流してはいないか?

たとえば、子供部屋が世界の全てである40歳、いかついズボンを履き、

見た目は汚れて電車に乗り、ネットでDQNと罵られる派遣労働者

目の前で専門知識を披露している男も、もしかしたら救命病棟の人手不足と

過労働に悲鳴をあげているかもしれない。

ただ声をあげられないだけだ。あなたより不幸な人はいっぱいいると切り捨てられて

なら、その不幸な人の最たる存在である

寝たきりの人が生きやすい社会は誰にとっても素晴らしいのか?

重度障害者は確かに弱者だ。しかし、彼らの意見に偏てしまっては

見た目でわからない弱い立場の人たちはなすすべがない。

重度障害者が暴言を吐かない科学的エビデンスがあるのか?

重度障害者が等しく善良だという統計があるのか?

もし、介護職の人々が、彼らに冷遇されていたとして、声をあげても

それは、「差別」で片付けられないという理論的根拠はあるのか?

 

実際、あの二人の会見を聞いてみても、障害者を切り捨てるのか。という怒りが

この問題の本質である、命のトリアージを政治はほったらかしにするのか。

生きているとは何か」という議論から完全に外れてしまっている気がする。

弱者の救済は必要だ。しかし、自分は弱者だ!と叫び、認められる人は

ごく僅かだ。寝たきりの人に優しい世の中を作ろうとして

寝たきりの人以外に冷たい世の中を作ろうとしてはいないか?

 

ヴィジュアルでわかりやすい弱者の意見ばかり聞いていては、

この社会のなにが問題なのかを本当に理解することはできないだろう。

本当に辛い時期だと思う。はっきりいって、今はそれどころではなく

疲労を少しでも休めたいはずだ。

会見中も疲れ切っているのがはっきりとわかる。

だが、今回のような問題は、遅かれ早かれ出てくるだろう。

これ幸いとネトウヨは、「左翼の内ゲバ」リベラル派、代表の責任問題による

辞任を要求している。

普通ならば、これを機に、少しでも異見があれば、除名、という流れで内部崩壊

とうのが、定石の流れだろう。

しかし、彼らはそうはならないと願いたい。

死にたくなる世の中をやめたいと心から願っている一人として

 この一件の問題を受けて、組織として成長してくれることを

日に1,000度、死にたいと呟く、身内を殺した罪悪感を抱える者として祈っている。