キリギリスはなぜ死んだ?

社会に、いらね。と言われた奴の最後のあがき

価値のない人生も見方によっては宝物。

 

キリギリスはなぜ死んだ。は

 

「社会に受け入れられなかったゴミが、社会に悪態をついているゴミブログ」だ。

書いている奴が一番理解している。

それでもいい。

 ゴミなら、分別して、焼却すればいい。

その中には、リサイクルできるものもあるはず。

 

 生きる認可をください。

頭をかかえるのは

そんな見向きもされない内容でないと記事を書けない作者の

引き出しの少なさだ。

読者に喜ばれる記事を書こうとしたら、更新できなくなった。

 

タイピングするたびに止まりそうになる心臓に鞭打ち

かろうじて機能している前頭葉からの

「こんなこと書いて何になる?今すぐ引き返せ」という命令を無視して

恥を撒き散らす。

 

ブログを書いていて楽しい。と感じたことは、一瞬もない。

ただ、ブログを更新すると、少しだけ、許されたような気がする。

リストカットをした事はないけど、切ったら楽になる。という感覚に似ている。

己の知られたくない部分をさらけ出す事で、自分を傷つける代わりにしている。

 

なぜそんな事を?

免罪符が欲しい。25超えて実家暮らし、金を入れもしない。

生活力のない自分が生きる事に。

 

いつも気を張って、その考えから目を背ける。

でも、一瞬でも気をぬいた瞬間。便秘から解放された時が一番多いかな。

 

そいつの声。

 

なんで、まだ、生きてるの?

 

わかるわけねーだろ。

生きてる理由なんてない。笑いがこみ上げてきた。

そうだ。とっくの昔にそんなもの消えた。

現状を見れば、ニートなど、死んだほうが世のためだ。

存命するメリットはない。

 

自分がただの不燃ゴミのレベルにいる事を自覚する。

 

行き過ぎた寛容。

最近の社会は、スパルタ教の反動で、優しさ教に入信してしまったようだ。

行き過ぎた寛容が多すぎる。

 

大人たちの自身の溜飲を下げるために吐いた

憐れみを鵜呑みにしてはいけない。

結果ゴミになっても、自業自得と言われるのがオチ。

 

 

いくら逃げても、ダメだ。

自分の惨めさと向き合わなければ、状況は良くならない。 

 

 現実は非情だ。

人間は冷たい。

でも、戦い続けなれば

 

たとえ全人類に

 

  死ね。と懇願されようとも。

 

 

 このブログはゴミだ。

でも、僕みたいになりたくない。

そう思って、立ち上がってくれる人がいるなら

ゴミも再利用できたと言えなくなわないか。