キリギリスはなぜ死んだ?

社会に、いらね。と言われた奴の最後のあがき

入り口はあっても出口のない迷路

ここはどこなんだ?なぜこんな場所にいるんだ?どうやってここにきた?

 

なぜ?ここまでやってきた自分を呪ってみても、戻る道もない。

 

人生とはどこへ進むかもわからないのに一発勝負でやり直すこともできず

 

正しい道を示すヒントすらない迷路に似ている。

 

見渡す限りをやらなければならないこと、生きていく上での当たり前でできた

 

暗く、温かみのない壁で囲まれた狭く、息苦しい通路を、ただ広い場所にでたい

 

一心でさまよっていく。いったいどれだけ歩いたんだ?足がしびれるまで歩いても

 

見えるものは変わらない。まるでいままで一歩も進めていないような

 

いや、新しい道を選んだ。と思っていたけど、もとの場所に戻ってきてしまったような

 

あまりにもバカバカしく、疲れるだけで、時間だけは過ぎていく。

 

 もう疲れたよ。頑張ったんだよ。本当だよ。できる限りだ。

 

でも、頑張っても頑張っても、良かったこともないのよ。

 

立ち上がって良かった。報われたと思えることが、何一つもないのよ。

 

ただ、ただ、もっと頑張れ。もっと頑張れと

 

鞭で打たれているような気分で、成果が出るのはもう少し先だ。

 

とか、もっと先まで

頑張れって言うけど、差し込む光くらいないのかい?

 

 この、人生という迷路を作った奴はいったい何を考えているのだろう。

 

人を惑わせて何が楽しいというのだろう。

 

たとえば、これがアリの観察キットで、ここでさまよっている人間の有り様を

 

宿題の絵日記か何かに書いているのだとしたら、随分と滑稽だと思うだろうな。

 

入り口はあっても出口のない迷路を、いったいいつまでさまよえばいいんだろう?

 

 

 

 

やりたいことは「生きること」

人生に疲れた。と呟くと

 

やりたいことは?と聞かれる。わからない。知らない。

 

やりたくないことは山ほどあるけど、それをやめたら、生きていけない。

 

その、「生きる」がとてつもなく大変で疲れる。

 

人の体に元気を貯めておくタンクがあるとしよう。

 

でも、そのタンクの大きさはみんな同じじゃない。

 

たとえタンクの大きい人でも、貯めた元気をどのくらい使うかは、人それぞれだ。

 

やりたいことのない人は、やりたいことのある人よりも、元気の燃費が悪い。

 

ただ生きているだけで、元気を使い切ってしまってやりたいこと。なんて

 

考えもつかない。生きてるだけて精一杯なんだ。

 

でも、そんなこと思っている人は少数派なのかもしれない

 

電車の向かいに座るサラリーマンは大体スマホをやっているか、本を読んでいても

 

やりたいことをやろう!、自分らしく生きよう!

 

会社に縛られず自由に稼ごう!オンラインサロンで君も起業家だ!みたいな

 

誰もが王様になれる!とかのあおり文句のビジネス書ばかり、目がチカチカする。

 

そりゃ、人生100年時代〜とか、老後2000マン円の貯金が必要〜とか

 

国や政治、他人なんか当てにしちゃダメ。

 

自己防衛。みたいな時代なら、サバイブする知識を蓄えるのが

 

できる男だろうけどさ・・・・

 

でも、みんながみんな王様になりたいわけじゃないと思う。

 

誰かを縛れば誰かに縛られる。自由は孤りにならなきゃ得られない。

 

仮にやりたいことがあったとしても、それには金がかかる。

 

金を得るには?これにはまた、いろいろな方法があるけど

 

凡人が最速で稼ぐには、働くしかない。

 

日本最古のビジネス書 「常識」にはこうある。

 

「いっぱい働いて、いっぱいお金を稼ぐのだ。」

 

本当かな。

 

もちろん、少なく働いて、いっぱいお金がもらえるなら、それに越したことはない。

 

でも、今の世の中は、いっぱい働いても、ちっともお金が稼げないような気がする。

 

お金はいっぱいいらないから、生きてけるだけの額でいい。贅沢はしなくていい。

 

今の、見えない誰かに胸ぐらをつかまれて怒鳴られているような人生には

 

長い時間耐えられない。明日生きてるならラッキーだ。

 

不安しかない毎日なら、絶望しかない将来なら今すぐ投げ捨ててしまいたい。

 

とにかくこんな生活はいやだ。ならどんな生活がしたい?

 

やりたいこと。自分の時間を自分の思う通りに使いたい。

 

例えば海の見える場所に住みたい。鎌倉とか湘南とかがいい。

 

そこに住んでいる人がこれを見ていたら、あそこは〜ってなるだろうけど

 

今は置いておいてくれ。

 

朝はブロックの防波堤の上を散歩して、海を見ながら好きな本を読んで

 

昼はネットをして、たまにプラモデルを作って、塗料の匂いとか

 

気にしないでエアブラシで色を塗って、もちろん金があれば塗装ブースも欲しい。

 

読みたい画集やら漫画を買って、着たい服を着て、スーパーへ出かけて

 

 

できるなら軽自動車が欲しい。

 

お米を買ったとき、自転車では運のが大変だ。

 

洗濯、掃除が終わったら本屋に行きたい。

 

ここで大事なのは駅ビルに備え付けてあるような店じゃなく

 

イモい、「町の本屋」であること。

 

チェーン店がダメだ!みたいな頭の固い気取り屋になりたいわけじゃなくて、

 

「面白いもの」「新しい発見」があるのは、売れる本が置いてあるところよりも

 

売れなくても、売り手がいいものだ。と思っったものが置いてある場所だ。

 

 

もちろん、量産型の本屋でも発見はたくさんあるけど・・・・

 

売れるものしかない店ばかりの世の中に、失敗を許さない窮屈さというか

 

例えば、最近のアニメのCGで作られたメカ作画のような味気なさを感じる。

 

 

勝てないやつは邪魔だ!みたいな・・・・

 

ラソンの最後尾を泣きべそかきながら走っていた人や

 

体育大会の前の日に、「お前明日学校くんな」って言われたことがある人には

 

わかってもらえるかな

 

どんな店でも、全部が平均的なものしかない町ばかりなら、別にどこに住んでも同じ。

 

それは、どこまでいってもせまくてくるしい、やりがいやら成果を求められ

 

ノルマを求める見えないなにかに見張られているような人生だ。

 

それでは、まるで囚人のようじゃないか。あまりに味気ないというか・・・・

 

コンクリート打ちっ放しの建物はオシャレでカッコいい。

 

でも、あまり無機質な建物ばかりでは、おもしろくない。

 

話が脱線してしまったけれど、多分、みんなただの怠け者だと思って終わりだろうな。

 

文章にしてみて、かなり金がかかる生き方だと思う。

 

例えば山奥で野菜作って行きている人達みたいな、仙人のな潔さがあったらよかったのになぁ・・・

 

 

やっぱりやりたいことはできそうもない。

 

今目の前にある、生きることだけで精一杯。

 

今やりたいことは?と聞かれたら、「生きること」って言うだろう。

 

スーパースター

誰でも知っている俳優が自殺する。

 

誰もが死ぬ。しかし早すぎる。同い年だというのも、ニュースで知った。

 

俳優だけでなく、歌手としてもヒットし新しい曲もでるはずだったのに。

 

仕事がなくなったわけでもなく、人気もあった人間でも、死にたくなるのか。

 

 人生というのは、お金があっても、人気があっても幸せになれないのか。

 

ならば、金もなく、女もいない、仕事も安定したレールにすら乗れず

 

誰からも認められない人生は、もうゲームオーバーではないか。

 

ただ人間らしい暮らしがしたい。明日に不安なく、明日が来るのを呪わない人生

 

人らしい生き方がしたいと涙ぐむのは間違いなのか。

 

人間らしいどういう意味なのか?

 

人生の義務に縛り付けられている時間に考えずにはいられない

 

でも答えはないまま、人生が終わっていくことも

 

誰に言われるでもなくわかっている。

 

ちょうど、数時間前までとは違い、黒が濃くなった雲に覆われた空を見上げながら

 

降るだろうな。と思うのと同じように。

 

もしかしたら、考える必要のない問いかもしれない。

 

ならばなぜ、歩いている時も便器で踏ん張っている時も、眠らなければならない。と

 

言い聞かせて、天井を見つめている時も、なぜ生きている?。という声が

 

どこからともなく飛んでくるのか。心の病気か。

 

なんとかクリニックで薬をもらえばいいのか?

 

医者から、その薬は強すぎてもう出せません。と断られ生きる価値を失って

 

この世からいなくなってしまった人の話は、もう聞き飽きてしまった。

 

人間一人が苦しみに耐え切れなくなって、いなくなったことを

 

一大事だとすら思えないのは、心の病気だと思う。みんなはそうじゃないよな?

 

でも、みんな平気な顔で生きている。もしかしたら、この世界のゆがみをきにしているのは、頭がおかしいからなのか

 

それから数日、今度はALS(全身の筋肉が徐々に固まって最後は死に至る病気)の

 

人が、SNSで知り合った男二人に自分の命を終わられてくれるように頼み、薬を

 

打たせてなくなる。という、世間では事件と呼ばれる出来事が起こった。

 

男たちの銀行口座には、100万円程のお金が振り込まれていたそうだ。

 

偏見の目から言わせてもらえば、やはり、100万円程のお金を払える金もちであって

も、体が動かない不自由を抱えていると、生きていたいとは思えなかったのだろうか

 

少し前なら、本人が死にたいのだから勝手にやらせておけばいい。ですませて

 

いたけれど、今は、たとえ寝たきりになろうと、

 

体が動かなくなろうと、その人生を楽しく生きている人はいる。難病をわずらっていよ

うとも、人の価値観は人それぞれだ。体が動かないから不幸だ。と決めつけてはいけな

 

い。もちろん、あの人は生きていたいのに、あなたが死にたいのはおかしい。という、

生きることのおしつけをするのはいけない。

 

持っているものや、立場や、貯金の金額では、人生は計れない。それはわかる。

 

もちろん、人の幸せはお金じゃない。なんて、キレイ事を言いたくはない。

 

お金がない身分から言わせてもらうと、金の心配をしなくていいと言うのは

 

最低限で、それプラスアルファの生きている価値を見出せるか。は

 

誰かが与えてくれるものでも教えてくれるものではなくて選び取るしかない。

 

今回の出来事は、この国で生きる全ての人々が、考えていかなければならないことで

 

少なくとも、夕方のニュースで、グルメリポートのついでに紹介されてたり、

 

ワイドショーで、犯人の生い立ちやら、嘱託殺人を依頼した人の近所付き合いとかを

 

リポーターが聞いて回り

 

それをスタジオの芸能人が、あーでもない。こーでもない。と言い合って行くうちに

 

みんながあきてしまい、3ヶ月後には誰も覚えていない。なんてことになってはいけな

い。そうこうしている間にも死ねないから生きているだけの人々と、人の生きる価値を

 

自分の物差しで決めている人々の死のマッチングはおこっていく

 

こういう出来事は、またかというレベルで増えていくだろう。

 

人間が生きるとは?その問いをめんどくさがり

 

勉強していれば、仕事していれば、お金があれば、友達がいれば、異性がいれば・・・

 

人のせいにすることで、心に開いた虚しさを埋められた気分になっていたけれど

それは違う。

 

光る星を見上げていても、星の事情を考えている人は見かけない

 

果てのない真っ暗闇で、常に光り続ける星はは、どこまでも孤独だ。

 

 もうスーパースターを夢見るのはやめて前を向いて歩き出そう。

 

地べたを這うスタイルこそが、凡人らしい。

 

これまで諦めていた理不尽を受け入れず、おかしいと声をあげた先に

 

自分にしかない、人間らしい生き方があるんだ。

 

預金通帳に書かれたそばから減っていく数字、

お金がなければご飯を買うこともできない。

ご飯がなければ飢えて死んでしまう。

生きるためにお金を稼ぐ、疲れたと叫ぶ心と体に鞭打って

今日も朝から出勤だ。

道の脇でじいさんが自転車で転んだ。ここで助けていれば遅刻してしまう。

遅刻すれば仕事がなくなる。すまんな。じいさん。

人生のゆとりを犠牲にしないと死んでしまう人生とは?

なんて哲学者気取りで書き込めば

君は、今はお金に縛られない生き方もあるとか

フリーランスでお金を稼ぐ方法もある。なんて言い出すんだろ?

例えば無人島でmasaru hamaghitやナスDみたいに生きるセンスはないし・・・

ならば都市のストリートで生きる?マンションのゴミ箱から無断でアルミ缶を拾えば窃盗罪が成立、橋の下にダンボールを敷けば、国家権力の地上げ屋がこんちは。

お腹を満たすために、廃棄の弁当を漁ろうとしても最近のコン◯二弁当は、廃棄する時にタバコの灰を混ぜる。残飯を漁られないためだ。

ストリートで生きて行くためには、マンション住人との交渉力、警察を察知して

逃げる危機管理能力、ほかの路上生活者との情報交換、縄張りを荒らさないように

気に入られるコミュ力がいる。

ならばフリーランスはどうか?ニートから抜け出せなかったときに一度だけ

ブログで稼げないか試したけど、ダメだった。

クライアントの指示通りに文章を書くという作業ができなかった。

当然だ。ブログは押さえつけられた感情を解放するための唯一の拠り所。

それをストレスの場にすれば、パンパンの風船に空気を吹き込むようなものだ。

それに、家の中で仕事をするのも、窮屈だった。

このブログをみている人は、お前はコミュ症のぼっちだろ?って言うだろう。でも

仕事に関しては、ぼっちが嫌だったようだ。

誰もいない国に行きたいなんて言ったのに。わがままだなぁ・・・

それに、会社につながれている身と違って、フリーランスは自分から仕事を

とってこなくちゃならない。結局のところ、仕事を得るために必要なのは

仕事をくれる人とのつながり、いわゆる、コネだ。

それを会社がくれるか、自分で繋がっていくかの違いだ。

こう考えると、ホームレスと、フリーランスは似ている。

どちらもコミュ力が大事でしょう。

そしてどちらも、自由気ままにみえて、その実は不自由で窮屈だ。

飲み会を嫌がるようなヤツは一瞬で潰れていくだろう。

ならば自給自足はどうだ?田舎で野菜を育てるニートも話題になった。

君は野菜を作る農家の苦悩がわかっていない。

彼らの生活はブラック企業など目じゃないほど辛いものだ。

そして、田舎暮らしには、狭いコミュニティーの中で立ち回れるコミュ力が必要だ。

やはり、人間が生きて行くためには、コミュ力が必要だということか。

年をとればとるだけ、上手く立ち回れない人間は生きるのに向いていないと痛感する。

もういっそ、どっか遠くの名も知れない土地で果ててしまいたい。

ないのは物欲か?

今日も本社から上役がやってくる、一ヶ月前には存在しなかった指示をさも当たり前の

ように怒鳴り散らして帰っていく。

それでもここにいるしかない。逃げ出したい。でも、逃げられない

金がいるから。金を得るためには、心を削るしかないから。

かといって、欲しいものを手に入れられるだけの金はない。

休憩時間に慰めるために見ているインスタ。

自転車、自動車 バイク、服、車、どれもかっこいい。

でも、どれもこんなところにいるヤツには買えるわけがない金額。

かっこいいものは高い。

それでも、と雑誌を買って帰る。

少しワクワクして、子供の頃みたいに両手をブンブン振って歩いてみた。

すぐに馬鹿らしくなってやめた。

小学生の半日授業の帰り道みたいに

ワクワクしながら家に帰ることもないのかなぁ・・・・

それはそれで寂しいな。

 

ガチの若者からみたら若くはないので、今時の若者事情は知らない。

ただ、元、若者の立場から言わせて貰えば

若者と懸け離れた年齢の大人たちがよく、

「今時の若者は物欲がない」と嘆いているけど大きな間違いだ。

物欲がないのではなく、お金がない。それだけの話だ。

 

命の選別

なんの話かって?ただの不幸自慢さ。

 

母さんが死んだ日のこと、あの日も暑かった。

数件の病院をたらい回しにされ、辿り着いた名も知らない街の病院の会議室で、

僕とおばさんは、命の選別。人間が生きている定義を考えることになった。

 

僕らの向かいに座った江口洋介のコスプレをしている中年男性は言った

今なら、股の間から管を通して機械の力で心臓を動かすことができる。

「喋れるようにはなるのですか?」

「なりません」医者はVtuberの答えを否定する小峠のごとく力強く答えた。

「それは死んでしまった」ということですか?

 「なにを持って生死を判断するのかは、今の医学でも大変難しいことです。」

江口は便所サンダルから覗く糸くずがくっつきまくった靴下の親指をモゾモゾさせ

ながら続けた。

集中治療室に寝ている母さんは生きている。医学的には。

みそからは体に生きろという命令を出す電気の信号を発しているが、

次第にその信号はなくなる。脳みそから命令がなくなったら、次は心臓が止まる。

心臓が止まれば、肝臓、膵臓、腎臓・・・・他の臓器に血が送れなくなり、

腐ってしまう。医学的には、死ぬことになる。

それを止めるか否か。雲の上に向かっている人の手を、無理やり引き止めるのか。

もう二度と、おはようともお休みとも言えない人を。

その場の時間がクロックアップした。

誰でも同じだろう。大切な人は生きづつけると思っている

生きていてほしい。と願っている。当たり前だ。

じゃあ君は、明日から空気がなくなります。と言われたらどうする?

いきなり始まった新しい生活習慣で、マスクをしているだけでも息苦しいのに。

 

なにを持って生きているというのか。

 もう起き上がらない人の体に管を通して、機械の力で心臓を動かして・・・・・

 おはようともお休みとも言えない人を、生きていると言えるのか?

 例えば、体が動かない人だろうと、ベット付きの車椅子に座っている人だろうと

 「生きたい」の意思表示ができる限り、その人の生存を脅かす権利は誰にもない

 だが、逆に、「生きたくない」人がいる現実から目を背けてはいないか?

五体満足の人でも、もう生ききった。その人生を全うした。という人は山ほどいる。

 わかりやすい弱者の意見に引っ張られて

見た目にはわからない、目に見えない弱者の言葉を聞き流してはいないか?

たとえば、子供部屋が世界の全てである40歳、いかついズボンを履き、

見た目は汚れて電車に乗り、ネットでDQNと罵られる派遣労働者

目の前で専門知識を披露している男も、もしかしたら救命病棟の人手不足と

過労働に悲鳴をあげているかもしれない。

ただ声をあげられないだけだ。あなたより不幸な人はいっぱいいると切り捨てられて

なら、その不幸な人の最たる存在である

寝たきりの人が生きやすい社会は誰にとっても素晴らしいのか?

重度障害者は確かに弱者だ。しかし、彼らの意見に偏てしまっては

見た目でわからない弱い立場の人たちはなすすべがない。

重度障害者が暴言を吐かない科学的エビデンスがあるのか?

重度障害者が等しく善良だという統計があるのか?

もし、介護職の人々が、彼らに冷遇されていたとして、声をあげても

それは、「差別」で片付けられないという理論的根拠はあるのか?

 

実際、あの二人の会見を聞いてみても、障害者を切り捨てるのか。という怒りが

この問題の本質である、命のトリアージを政治はほったらかしにするのか。

生きているとは何か」という議論から完全に外れてしまっている気がする。

弱者の救済は必要だ。しかし、自分は弱者だ!と叫び、認められる人は

ごく僅かだ。寝たきりの人に優しい世の中を作ろうとして

寝たきりの人以外に冷たい世の中を作ろうとしてはいないか?

 

ヴィジュアルでわかりやすい弱者の意見ばかり聞いていては、

この社会のなにが問題なのかを本当に理解することはできないだろう。

本当に辛い時期だと思う。はっきりいって、今はそれどころではなく

疲労を少しでも休めたいはずだ。

会見中も疲れ切っているのがはっきりとわかる。

だが、今回のような問題は、遅かれ早かれ出てくるだろう。

これ幸いとネトウヨは、「左翼の内ゲバ」リベラル派、代表の責任問題による

辞任を要求している。

普通ならば、これを機に、少しでも異見があれば、除名、という流れで内部崩壊

とうのが、定石の流れだろう。

しかし、彼らはそうはならないと願いたい。

死にたくなる世の中をやめたいと心から願っている一人として

 この一件の問題を受けて、組織として成長してくれることを

日に1,000度、死にたいと呟く、身内を殺した罪悪感を抱える者として祈っている。

捨てろ!

鏡を見て、1日に100度は言い聞かせろ。

おまえはひとりだ。だれも助けてはくれない。

 

バファリンは優しさでできている

人間は水でできている。ならおまえの体は?

あのときこうしていれば?道が開けた?

いつまでしがみついてる?その妄想に。

捨てろよ。投げすてろ。

捨てろ。捨てろ。迷うな、疑うな。拾うな。

唱えろ。捨てろ。捨てろ。捨てろ!捨てろ!

今いる場所は望んでいない場所だというわがままを捨てろ!

誰かの悪意で苦しんでいるのだ!という己の決断力のなさをごまかすための

他人への依存を捨てろ!

捨てろ!捨てろ!捨てろ!捨てろ!

ネットの広告でみて、よく考えもせずクリックして買ったあのゴミを捨てろ!

持ってるもので人を図ろうとする、その浅はかさを捨てろ!

全部捨てろ!持つことは悪だ。持たざるものこそが全てを掴むのだ!

捨てろ!捨てろ!捨てろ!捨てろ!捨てろ!

今より良くなるのだという、妄想を捨てろ。

自己実現できない言い訳を捨てろ!

お前が見ている景色、それが人間だ。目をそらすな!言い訳するな!

おまえが父親のイカティッシュの中にいた頃から、人間は醜く、冷たい生き物だ。

おまえが感じる理不尽など、今に始まったことじゃない。

全ておまえが悪いんだ!

おまえが不公平を嘆くのは、おまえががんばってこなかったからだ!

がんばればだれだって報われる。この国は、よその独裁国家とは違うのだ!

世界で一番美しい国の!世界で一番尊敬されている国の!

世界で一番愛されている国の!そのなりたちに付いて行けないおまえが悪いのだ!

わがままをいうならおいていくぞ!だったらどうしてここにきた!

いい加減にしろ。いつなったら自分を見つめ直すんだ?

 

捨てろ!捨てろ!捨てろ!捨てろ!捨てろ!捨てろ!捨てろ!捨てろ!

 

 

 

 

 

スマホゲーム

ゲームは好きだよ。

どっかの県みたいに

ゲームばっかやってるから頭がやばい人間になるのだ!とか怒鳴る大自然カルトの人みたいなことを言いたいわけじゃない。

ただ、テレビゲームで青春した身としては

ゲームってのは腰を据えてじっくり画面に集中していくもので、移動時間の片手間でやるためのものじゃないような気もする。

 

けっして、スマホでゲームするな!ってわけじゃない

現にさっきまでブログの更新そっちのけで、

デイリーチャレンジに勤しんでいたわけだし

スマホゲームは面白い。

手に収まる画面の向こうの住人たちは、無職フリーターの身分でも王様として

扱ってくれるし、遊んだ時間に比例してレベルがあがり、成果が出る。

夢のような世界だ。顔を上げてみる現実の世界では

気が遠くなるほど働いての稼いでも手取りはごくわずか。

それでも多数派の大人たちは、もっと頑張れよと

無知をふるい、僕らを怒鳴りつけ、痛めつける。

現実はクソオブくそのくそげーであることは疑いようのない事実だ。

しかし、スマホゲーは、1日アクセスしていない置いてきぼりになってしまうし

セーブがきかないから、失敗できないし据え置き機と違い、終わりがない。

さらには強くなるには金がかかる。

ゲームのくせに急に現実とリンクしてくる。

いわゆる、ガチャと課金系・・・・・

 

ビンボーくさい話をしたいわけじゃない。

ただ、たとえば、5000円とか、究極10000円とか、決まった額を払えば

それ以上金を払わなくても遊べた方が気持ちいと思うのは時代遅れなんだろうか?

まぁ、うん万円もするゲーム機を買う金がないから、スマホでゲームしてるんだけど

大人になればテレビゲーム買い放題じゃん!

 

世間知らずめ。

 

今は子供の頃みたいに、ガリガリ君食べながら時間を気にせずに、あーでもない

こーでもないと失敗しながら、ひきこもれる余裕と金がほしい。