キリギリスはなぜ死んだ?

社会に、いらね。と言われた奴の最後のあがき

どうして死にたくなるのかな?

死にたい理由を考えろ

東京0円ハウスで有名な坂口恭平さんの著書、「現実脱出論」を読んだ。

 

内容は刺激的だけど、中でも

 

死にたい理由を考えろ。という文が目に焼きついた

 

「死にたみ」と聞くと、「命を粗末に〜」的内容になりがち。

 

でも、坂口さんは理由に着目するという新しい視点を与えてくれた。

  

駄目出しがくるほど 死にたい。死ぬべき。死を連呼してきたけど

 

そこまでは考えなかった。どうして死にたくなるのかな?

 

いる意味がないとわかったとき

 

死にたくなるのは、働いているときが多い。

 

 朝、目覚ましの音に起こされて、電車に揺られる。

 

1日が始まると思うと憂鬱になる。働くという行為が、苦痛にしか思えない。

 

労働は義務と言われても、

 

権利を享受している気になれないのに、義務ばかり押しつけられても。

 

 分かってるよ。甘えるな。怠けるな。なんて、あおるなよ。

 

働いている最中に、頭の中にいる世間と押し問答してるうちに

 

仕事がおそろかになって、どうでもいいミスをする。

 

流れがせき止められ、義務が見上げるほどの山を作る。

 

誰でもできることができない。

 

なにを間違ってるのかわからない。なにを直せばいいのもかわからない。

 

なにがわからないのかわからない。

 

頭の中で問題でぐるぐる回り、ショートして真っ白になる。

 

なぜこんな事もできないのかと指摘される。

 

本人が一番よくわかってる。きつい。クヨクヨしている間に日が暮れる

 

なんとか帰ってきた。眠りについたら、けたたましいサイレン

 

景気がいいのは、目覚ましの音だけ。

 

布団の暖かさに隔てられた外から入ってくる冷気。

 

昨日と同じ。苦痛しかない無能な日常が待っている。

 

しかし、生きるためには働かねば。

 

働かない人間は存在する意味がない。

 

この社会は歯車になれる奴しか生きれない。その現実に死にたくなる。

 

 

やりたいことで一円もとれなかったとき

コントローラーが壊れて、キャラクターが前にしか進まなくなってから

 

卒業したけど、テレビゲームって、楽しいよね。

 

そりゃ、楽しませるように作ってあるから。なんて、いいっこなし。

 

レベル上げの単調な作業でも、楽しい。文句も言わずにやる。

 

なんでか。やりたいことだから。これは望んだことで、やっていて楽しいことだから。

 

なんでもいい。例えばブログを書いている時

 

なぜ?なんて考えなくても楽しいと思える。

 

 でも、例えばトイレにいくとき、一瞬でも現実に戻れば

 

「これが何円の値打ちになる」という質問が降りてくる。

 

こんなことをするよりも、レジの前に立ってる方が金になる。

 

隣にある無人のセルフレジとやることは同じなのに。

 

この何もない、苦痛が金になり、やりたいことが金にならない。

 

 自分の時間を売る。人間をやめて機械にならないと生きていけない時

 

創造、楽しめることに、生きる価値がないなら

 

もう生きていたくない。と強く思う。

 

未来がない。と思う時

 フリーターは義務をほうりだせるから楽でいいけど

 

いつまでも自立できない。大人になれないという裏返しでもある。

 

未来がないなんて考えたくないけど、将来を考えろと言われたり

 

ネットのつぶやきを目にすると、行く末を見ているようで、死にたくなる。

 

わかってる。本当に。自業自得だって。

 

それでも、これまで、これ以上は無理ってところで踏みとどまってきた。

 

よくぞ生きた!と叫びたいけど

 

世の中はもっときつくなる。これまで生きたのを後悔する。

 

人生をなめんな!言い訳するな!努力不足!甘え!愚痴を吐くな!

 

それが社会全体の総意なら

 

 こんな人生はもう無理。これ以上続かなくてかまわない。

 

 死にたい。と言い続けると

 

「でもお前、今生きてんじゃん。嘘乙。」と切り捨てるのは本当に止めてほしい。

 

死にたい気持ちを持っている人は、地面がグラグラ揺れているような不快と

 

明日が来るのが怖くて仕方ない、極限の苦痛に耐えるために

 

死にたいという気持ちを言葉にして切り離すことで、

 

崖っぷちの落ちるか落ちないかのギリギリで踏ん張っているんだ。

 

 死ねよ。という人は、死にたいと思ったことがないのかもしれない。

 

死にたい人の気持ちを考えてほしいといっても無駄なのかもしれない。

 

だとしたら、死を実行した時、「どうして相談してくれなかったの〜」

 

とか言い出すのは非情すぎやしないか。

 

 

「もしかしたら、死にたくさせた世間に問題があるのでは」

 

ぐらい言ってみろよ。

 

 

 

 

 

 

死なない理由

 

死にたいのは確かだ。でも、死ぬわけじゃない。

 

 

この二つは似てるけど、全然違う。

 

口だけと言われたらなにも言えない。むしろなんとでも言ってくれ。

 

 これが最後いいのか。悔しくないか。

 

価値もなく、負けまくったまま、

 

 現実は厳しい。使えない社会のお荷物だ

 

わかってるよ。でも

 

 それでも、まだなにかできる気がする。

 

まだなにかになれると信じたい。

 

惨めなのも辛いのも嫌だけど

 

終われねぇ。

 

死にたいけど、死なねぇよ。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

政治に興味を持て!と言われても・・・・

政治に興味がない奴は馬鹿と言う人へ

マウントをとるのではなく、 なぜ興味を持たれないのか、を考えるべきだ。

 

しかし、興味深々な人が、興味がない人の気持ちを想像しても

 

的外れな結論ばかり目につく。

 

そこで、政治に絶望した民の視点で、政治に無関心な理由を解説する。

うんこ味のカレーとカレー味のうんこどっち食べる?

どっちも食べたくねーよ!wwww

 

とツッコミいれて、小学生の休み時間を楽しんだ人も多いだろう。

 

今は笑っていられない。

 

日本の政党はうんこ味のカレーこと与党と、カレー味のうんこ、その他野党

 

どちらかを食べなければ死ぬ。という究極の選択だからだ。

 

確かに、今の与党のやっている事は、物理的暴力を伴わない民族浄化

 

金持ち優遇のイノベーションを起こす優秀な人材以外は人ではなく、死んでよし

という、庶民には地獄の政策だ。

 

ならば野党はと聞かれても、TPPも消費税増税も、言い始めたのは民主党

 

野党時代は与党を追求できても、いざ自分が運営に回れば

 

自民と同じか、もっとひどくなる。

 

カレーを作れると美辞麗句を並べても、キッチンに立つとろくな材料がない

 

結局、できあがったのは、カレー味のうんこ。

 

ならば、たとえクソまずいうんこ味でも

 

栄養のあるカレーを作れる料理人を選ぶしかない。

 

そんな絶望的な状況なら、餓死したい人がいても不思議はない。

 

何故怒らないと煽る人々へ。

 

今の政治になぜ怒らない。という人がいる。

 

怒らないのではない、怒れないのである。

 

社会の荒波に心すりへり、辛くもやり過ごすだけで奇跡。

 

毎日、怒る気力もないくらいヘトヘトだ。

 

そんな中で、怒れ!怒れ!と煽られても、鞭で打たれるのと変わらない。

 

ほとんどの人にとってこの世は生きづらい地獄であり、

 

大同小異の政治などどうでもいい。

 

それで生活が苦しくなるなら、いっそ殺してくれ。

  

メディアを信じるなと言われても

 

政府やメディアに騙されずに自分の頭で考えろ。には無理がある。

 

確かに、今はインターネットの普及で、表にでない情報を得られるようになった

 

しかし、検索しても出てくるのは、個人ブログなどの、2次ソースばかり。

 

彼らが嘘を付いていないとどうして言える?

 

疑心暗鬼だ。と言われても、ネットde真実の結果生まれたのが

 

ヘイトスピーチネトウヨ問題ではないか。

 

 かろうじて出てきた一次情報、(政府の統計、その他機関の調査)も

 

ごちゃごちゃしていてわからないし、そのデータも嘘かもしれない

 

そもそも、一般市民に、権力の嘘を見抜くけと言う方が無理がある。

 

数字の中にある、都合の悪い情報を見抜くのはかなりの熟練を要する技術。

 

 

それをもっているのがマスコミのはずだ。

 

自分の頭で考えろと言われても

 

仮に自分で調べて、真実がわかったとしよう。

 

尖閣諸島に迫る中国の魔の手

 

隣の半島に住むヤクザ国家とのいざこざを考えると

 

軍備拡張はやむなし、その結果、税金の値上げは仕方ない。

 

 まぁ、老人福祉に回す金を絞れば、何とかなる気もするけれど

 

日本という国を生かすか。

 

生産性のない国民を生かして、全滅するか

 

その二択なら、全体が生き残るためには捨て駒になるしかない現実。

 

 

だとしたら、自分の頭で考えたところで何が変わるというのだろう。

 

みんな自分の意思で犠牲になりました。と後で言える証拠がほしいだけだろ。

 

 

選挙はただの茶番劇

 投票しろ。と言われても、多数派が勝利するようにできているシステムの中で

 

 

少数派が投票したところで、何も変わらない。

 

例えば、働いたら負けという声を拾う議員など存在しない。

 

拾ったところで、当選できないからである。

 

確かに、選挙のときは耳障りの良いことを言うけど

 

いざ当選したら、外国や、金持ちにゴマをするだけで庶民のための政策など行わない。

 

 

 

最初から、権力者が議員を決めればいいじゃないか。

 

そうはいかない。一応この国は、形だけ民主主義を名乗っている。

 

後々、開きなる必要がある。

 

俺に投票しただろ。なら文句を言うな。これが結果だ

 

つまり、選挙は強者の理論を押し付けるための出来レースなのだ。

 

 

 政治は弱者のためのものではない。

 

現実を考えると政治を行うためには、ある程度、庶民を切り捨て必要がある。

 

しかも、切り捨てていると庶民に思わせないテクニックが必要だ。

 

そのために、世代間、正規非正規、公務員、民間の対立がある。

 

政治に理想や愛をもちこんでは、勝つものも勝てない。

 

 

庶民のための政治など、行われるわけがないのだ。

 

オワコンとかした日本

日本すごい!テレビで悦に浸るみんな。現実を見よう。

 

日本はオワコンだ。

 

高度経済成長時、世界で唯一成功した社会主義国家と言われた日本。

 

父親は家庭を一切顧みずにシャカリキに働き

 

母親は家庭でワンオペ家事をこなし

 

子供は学校にいって、社畜になるための教育を施される。

 

とにかく、働いていれば、幸せになれる。

 

 

 はずだった。昔は。

  

 

 

働かなければ死ね。という国民性を変える事はできない。

 

 

 日本の衰退は必然だ。誰にも止めることはできない。

 

地獄で生きるくらいなら、いっそ安楽死させてやるよ。

 

そんな武士の情けを持った議員がいるなら、スキップして投票するっていうのに。

 

 

 

 

 

 

 

人と会うのが怖い 

数年会っていない友達から電話がかかってきた。

 

頭の中で再生する映像には子供のままの彼が写っている。

 

通話ボタンを押そうとしたとき

 

相手と何を話すか想像して、指が止まった。

 

実家暮らしフリーターには、世間話の近況報告もできない。

 

何回か経験すればわかる。大抵その場が凍りつく。

 

親戚や近所、興味のない他人なら構わない。

 

でも、親友と呼べた人に乾いた笑いを返されるのは耐えられない。

 

さっきまでジングルベルも、今ではドアを叩く借金取りのよう

 

早く出ろよ。と脅す携帯を放り投げて、呼び鈴が消えるのを待つ。

 

しばらくして、息絶えた画面を見ると

 

留守電のメッセージと、「本当にこれで良かったのか」という後悔が残る。

 

ツイッターで相談するほど悩み、掛け直した番号。

 

彼も同じ立場で、その悩みの相談なのでは。

 

 普通になれなかったのは自分だけではない。

 

特別に落ちこれぼれているわけではない安心感が欲しかった。

 

電話に出た彼の声はあの頃と変わらなかった。

 

人生が光で満ちていた頃に戻っていく感覚。

 

 

 それも一瞬だった。

 

 

「今仕事何してるの?」

 

 

 全身の力が抜け、ひざ関節が40年くらい劣化した感覚。

 

そこからは、何時もの、乾いた時間が戻ってきた。

 

あの頃のみんなはもうどこにもいない。

 

みな当たり前に就職、自立、結婚している。

 

「大人になりそびれたのはおまえだけ」と言われている気がした。

 

彼は、「今度会おうよ」というけれど、普通の社会人に対する劣等感を

これ以上広げるなんて冗談じゃない。

 

忙しいから今度ね。といって電話を切る。

 

顔を合わせても、普通の社会人に対する劣等感で、その場から逃げ出さない

自信はない。

 

昔なら喜んで約束していたのに、歳を食うと、つまらない見栄がつっかえて

腰が重くなる。

 

 人に会うのが怖い。時間の流れから置いてきぼりになっているきがするから。

 

他人の近況と比べると、卑屈になってしまうから。

 

ならそもそも、電話に出なければよかった。そうはいかない。

 

他人と会うことで、何か変わるんじゃないかと思っているのは事実だ。

 

人と会うのが怖い。しかし誰かと繋がっていたい。

 

 働きたくない。しかし、生きるためには仕方ない。起業する行動力も

 

労働から離れて世捨て人になる悟りも開けない半端者のはがゆさ

 

人に使われるのは嫌いなのに、人に使われなければ生きていけない

 

この生き方で一生、生きていくの?と聞かれたら、口がどもるモヤモヤを

抱えながら、なんだか納得できずに生きている。

 

それが人生だ。と言われたら、そんな人生終わってしまってかまわない。

 

かといって終わらせる勇気もない。中途半端な自分にイラつく。

 

働いていれば安心と言い聞かせるけど、苦痛と恐怖しか待っていない社会に

 

出たくない。

 

逃げたい。今すぐに、そんな境地はもう何度目か。

 

しかし頭の中の現実が諭す。

 

ここで逃げ出てどうなる?逃げたところでその後は?

 

何もない。またニートに戻るだけ。

 

そして、ただの糞袋とかした己を呪うだけ。

 

そこからまた道に戻ろうとしても、

 

この歳なら再就職先を見つけるのは、もっと困難になる。

 

ここにいるしかない。ここで生きるしか。じゃあもう生きていたくないよ。

 

でも死ねない・・・・おなじところをぐるぐると回る。たくさんだ。

 

ここからでる方法。最近本気で考えている。死ぬ以外で、どうにかして

 

働く以外の道がないか。「現実は甘くない」わかってる。

 

しかし、このままでは、本当にどうにもならない。

 

なぜ人と会いたいのか

 

ブログを初めてよかったのは、自分の歩ける範囲外の生き方をしている人と

出会えることだ。

 

もしかしたら、そういう生き方をしている人に、直に話を聞いてみれば

 

何か変わるかも。と思ったこともある。

 

しかし、ネットと違って、

 

現実の世界で会うとなると、人との距離感がつかめない奴にはハードルが高い。

 

結局、他人をあてにしても、何も良いことがないのは、わかりきっている。

 

しかし、自力で物事を変える力もないごみくずには

 

この行き詰まりから抜け出すことができない。

 

どうすればいい。わからない。一人では。

 

なぜ人と会いたいのか。逃げ道を作りたいのだ。

 

逃げ出したい場所以外にも、居場所がある。そういう安心感が欲しい。

 

できるなら、自分と近い感性を持った人に会いたい。

 

まったく同じでなくていいから。

 

人と合えば何か変わるかもしれない。

 

それを考えると、今回の友達からの電話に出たのは、良いことだったと思う

 

結果はどうあれ、行動した。ということは、少し自信になった。

 

やらなかった後悔より、やった後悔の方がポジティブというのは

 

まんざら嘘ではないらしい。

 

これまでの生き方を振り返ると、しなければよかったことと、すればよかった事しか

ない。

 

しかし、その経験から、こうすれば。と思えるやり方が見つかればいい。

 

もちろん、これからの事はわからないけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生きる価値のない人のセーフティーは安楽死。

 社会学者の古市と科学者の落合氏の終末医療に対する対談がネットで炎上している。

 

要するに、死が確定している人間の命を引き延ばすために金を使うのって、無駄だよね

 

ということらしい。この二人に興味がないので、適当に内容を要約したから

 

ちげーよ。というツッコミはなしにしてほしい。本題はそこじゃない。

 

気になったのは、彼らの対話に対する

 

セーフティネットを壊すな」とか

 

「お前も老人になったら困るだろう」というコメント。

 

おそらく、最近らくらくスマホを買った方々の意見なんだろう。

 

分かってねぇなぁ・・・・

 

セーフティーネットの網目

 

余命の長い短いに関わらず

 

生きる価値のない人は長生きなど望んでいない。今すぐ死にたいのである。

 

後ろ指差される僕らの人生が苦しいのはなぜか。頑張ってこなかったからだ。

 

ニート、引きこもり、非正規雇用、流されるままに逃げてきた奴に

 

安心など存在しない。じじいになれば野垂れ死に待ったなしである。

 

セーフティーネットに頼ればいい。という意見もある。しかし

 

メイドインジャパンの網は荒すぎて、網目に引っかかる方が難しい。

 

それ以上落ちないように貼られた「網」といっても

 

 この国のセーフティネットは、ガワだけのハリボテではないか。

 

本音では、 働けないクズは死んでくれと思っているのだろう。

 

ここにたどり着いたあなたなら気づいていると思う。

 

人間は誰も助けたくないし、頑張れない他人は邪魔者で自分はグータラ暮らしたい。

 

他人など気にしている場合ではない。

 

人間の本能は、悲しみと不幸に向かうようにできている。

 

生きづらさは日本の構造、日に照らされてできた影に過ぎない

 

 

 偽りの希望に期待すればバカをみる。自分の人生は、自分で切り開くべきだろう。

 

求められるのは、絶対安全、安楽死

 

かといって、大人になっても自立できない赤ちゃんだから

 

こんなゴミ人生を送っているのは事実。

 

やはり、外部からの手助けは必要。

 

 絶対に安全と言い切れるセーフティ

 

生きる価値のない人にとって、本当の安心とは何か?

 

「死」

 

以外思いつかない。

 

不都合しか起こらない現実で生きるかぎり、心安らぐ日などこない。

 

日常にはクズが生きるべきではないと知らしめる罠がそこかしこに張ってある。

 

今日をやりすごしても、明日に、明日を退けても、来週に・・・・

 

油断して自己を肯定すれば、地雷を踏み抜き、手足が無くなる。

 

その後は、調子に乗った自分を後悔する地獄が待っている。

 

いつつまずくんだ。次は何が起こるんだ。どうせダメなのに、なぜこんなことを?

 

油断しないように、この瞬間も心に言い聞かせる現実

 

「生まれてきてゴメンなさい」

 

誕生を呪いながら生きなければならない現実と向き合うのは、正直キツイ

 

しかし、現実から目を背けても、手痛いしっぺ返しがくるだけだ。

 

義務を果たすために乗る電車。立ったまま目を閉じる

 

数分でいい。現実を見ないですむ。

 

それでも、視覚がない分、他の感覚から現実が流れ込んでくる

 

辛い。きつい。悲しい。消えたい。耳の奥で声がする

 

胸の真ん中から、不愉快な振動が骨を伝ってくる。

 

毒ん 毒ん 毒ん・・・

 

一呼吸するたびに、針が肺に刺さるようだ。

 

痛い、苦しい、逃げたい。

 

もし、ここで、逃げ出せたらどんなにいいだろう。

 

行き先と逆方向の電車に乗って、

 

気の向くままに、心の向くままに、遠くに行けたらどんなにいいだろう。

 

どこまでも遠くの、窮屈さのない世界に・・・

 

そんな妄想の一番楽しいところで、目的地到着のアナウンス。

 

夢はさめるものだと理解する。

 

どんな場所に行っても、無価値な自分が変わらないかぎり、意味はない。

 

逃げちゃダメだ。

 

この社会では、逃げれば逃げるほど、選択肢は狭くなっていく。

 

逃げて、逃げて、たどり着いた地獄。

 

つまりこの世は地獄、人生は苦痛なのだ。

 

仕事が向いてない。と思っていたけど、

 

 

 

人生という仕事に向いていないとわかったのは、つい最近のことだ。

 

そこまで悟った人間には、やはり、安楽死を与えたほうがよいと思う。

 

この先、グローバル化の激しい国際社会で競争を余儀なくされる日本

 

少子化、人手不足を背景に、労働の強度は上がっていく。

 

そのペースについていけない人間はでてくるだろう。

 

 

そうでなくても、最近、世の中に対する逆恨みをした「無敵の人」が増え始めた

 

一時期流行った、「死刑になりたいから人を殺す」という輩も増えていくだろう。

 

 

そういう人間には、国が最後、きちんと安らかな眠りを保障することが大事だと思う。

 

生きる価値のないクズでも、どうぞ勝手に死んでください。では、国の威信が問われるだろう。

 

僕は、新自由主義や競争社会を否定する気はない。

 

これから日本という国が生き残っていくためには、多少の犠牲は仕方がない。

 

それはわかる。

 

しかし、自分たちで決めた方針にとりこぼされた人間の最後ぐらい

 

しっかり面倒をみるべきだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新年を祝う余裕がない。 目標を立てる希望もない。

新年。あけまして何がめでたいって言うんだ?

 

社会不適合者の身分も、生きづらさにも変化はない

 

むしろ、若いからなんとかなる。っていう言い訳からまた一歩遠ざかっただけ。

 

祝うべきことなど、何一つ起きていない。

 

 

 

元旦から毒を吐くのは、三が日の夢を見ている人の頭に

 

バケツ一杯の氷水をぶっかけるみたいで気がひける。

 

しかし、夢はいつか醒めるもの。

 

正月が終わって、皆が仕事を始めれば、嫌が応でも、死にたみは帰ってくる。

 

他のブログでは目標を立てている人が多いけど

 

ここで油断して、分不相応に前向きな目標を書いて

 

社会に戻った時、何度現実にコテンパンにされたことか。

 

さすがにアラサーだ。同じ轍は踏まない。

 

気を抜いてはいけない。

 

 

望もうが望むまいが、いずれ身をもって知ることになる。

 

 

組織に無益な人間は生きるに値しない。

 

価値もないのに、生を肯定する目標なんて立てられるはずもない。

 

 

 失望に備えよ

 

死にたみは筋トレに似ている。毎日行えば体が慣れて

 

多少の痛みに鈍感になるけど、少しでもサボれば心が鈍って

 

かすり傷程度の死にたみでも、どうしようもないという気持ちになる。

 

必要なのは、希望と失望の差をできるだけ小さくすること。

 

この世は地獄。一ミリの希望もないと心に刻めば、

 

地面に叩きつけられる衝撃は最小限になる

 

一生懸命生きてんすよ・・・・

 

全て個人は、生きるべき人間と死ぬべきクズに分かれる。

 

客観的にみれば間違いなく後者。かといって、ここで人生を終わらせる勇気はない。

 

死ぬのが怖い。ただそれだけだ。

 

 

死にたい。といいつつ、腰を上げない自分に苛立つ。

 

こんなことを本当は言いたいわけじゃない。

 

では何が言いたいのか。何が言いたいんだろう。

 

 

もちろん、読者の「見たい」にそわなければオナニーでしかない。

 

しかし、読み手のニーズを見極めた記事作成などできない。

 

だから思うまま素直に書くしかない。

 

このブログにしかできないことがあると信じて。

 

ならこの記事を通して表現したいこと。伝えたいことって?

 

この行を打つまで数時間考えたけど、出てきた答えは

 

「わからない」

 

いや、思いつく言葉はたくさんあった

 

絶望、苦痛、悲しみ、虚無・・・・

 

そのどれもが、的を得ているようで、言いたいことを

 

言い切れていないような気がする。

 

これまで積もってきた数え切れない苦々しい思い出

 

それを一言で表す言葉など、ありはしない。

 

一番近いのは、「死にたい」だけど、これもやはり

 

近いようでとても遠い言葉だ。

 

人生がそびえ立つクソに思える時、死にたい、消えたいのは確かだ。

 

ネット全盛の時代、苦痛なく消える方法はいくらでもあるのに

 

検索すらしない。

 

 やろうと思えばいつでもできる。なぜそれを実行しないのか。

 

ここでまた数時間考え込む。やるべき事は山ほどあるのに、それを

 

ほったらかして、一体何がしたいのか・・・・・

 

わかってほしいんだ。そう。ただ、「わかってほしい」んだ。

 

たとえ、成果が出なくても、社会や会社の役に立たなくても

 

あなたより努力していなくても、

 

ゴミはゴミなりに、一生懸命生きてきたと、わかってほしい。

 

誰に?

 

誰かに。

 

 

今の世の中はそんな掛け合いすら難しい。

 

ただ、「辛い」と言ったら、「そうだね」と言い合える人が周りに

いれば、どんなに楽だろう。安心できるだろう。

 

そんな人はいない。誰もいない。

 

ひとりだ

 

それがわかると出てくる言葉は

 

「どうしようもない」

 

なにを言ってるのかわからないと言われても

 

これ以外思いつかない。

 

わかりやすい言葉を選んだつもりが、抽象的になってしまう。

 

何が言いたいの?

 

一生懸命生きてるんすよ・・・・

 

 結局、なぜ生きてるの?

 

こんな質問がでてくるのは、「なぜ死なないの?」と同じだろう。

 

わからない。いや、わかりたくない。と言ったほうが近い。

 

強いて言うなら、「ヒーローになってから死にたい」

 

正確には、死んで惜しまれる人になりたいんだ。

 

今すぐ死にたい訳ではいないけど、どうしても生きていたい理由もない。

 

中途半端だとイライラするだろう。でも、これが一番しっくり来る。

 

結局、生きる希望を捨てられないのだ。

 

世の中が良くなってほしい。生きやすい世の中になってほしい。

 

生きとしいける全ての人が。

 

このブログの方向性が決まった。

 

 

死にたいけど、死ねない。

 

働きたくないけど、はみ出す勇気もない。

 

社会に復帰したいけど、できない。

 

フリーター、ニート、引きこもり・・・・

 

 

そう。何にもなれない中途半端な奴のために

 

書いていこう。と思うと、少し自信が持てる。

 

 ここは、中途半端な奴のためのブログなのだ。

 

かっこつけない。

 

なんだかんだで、今年の目標を思いついた。

 

かっこつけない。である。

 

人気のブログなら、ここで、突っ走る。とか、全速力で止まらずに

 

とか言う。うらやましい

 

でも

 

疲れたら立ち止まり、もう立てないとうずくまって

 

愚痴を吐きながら、立ち上がる。のが、自分に合ってる。

 

止まったっていいじゃないか。

 

嘆いたっていいじゃないか。

 

大事なのは、歩くのをやめないことだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生に救いがないと気づいた一年

2018年。平成最後の寒波(であってくれ)と共に

 

もういくつ寝れば30という大事な年が、社会の底辺のままで終わる。

 

気づいてしまった。この先、生き続けても、救いのない人生だと気づいてしまった

 

今更wwww

 

笑ってくれ。ここから先は苦笑いも起こらない。

 

 気づいちゃった。気づいちゃった。わーいわい。(絶望)

 

気づいたというより、そらす目線すらなくなったというべきか

 

落ちたら這い上がればいい。 ゴミ人生にそんなロマンはない。

 

一度踏み外せば、底のない谷を落ちていく。

 

君のいう通りだ。一言で言えば自業自得。

 

落ち始めた瞬間に、爪が割れても、指が折れても

 

谷の壁に這いつくばって、それ以上落ちないようにするべきだった。

 

ここより下はない? 甘いな素人。

 

目が慣れればいずれ見えてくる。終わらない虚無が。

 

どこまで落ちるかわからない不安を覚えたら、そこから一目散に駆け上がれ

 

いずれ良くなる。いつか報われる。そんな甘言を信じるな。

 

今を変えられないなら、未来など変わるはずがない。

 

君が思っているよりも社会はずっとシビアだ。

 

一瞬でもレールから外れたら、その後は地獄。

 

 

確かに、某ゼンカモン、くたびれた堂本剛

 

法の網目をくぐった人間の悪意を垂れ流す掲示板の創造主

 

京都大学出身のニートなど、常識からそれて生きている人はいる。

 

しかし彼らは本筋から離れた脇道を記した地図がある環境と

 

本人の地頭の良さが揃っているから輝いているのであり

 

「やだ!やだ!会社行きたくないンゴ!朝起きるの辛いンゴ!」

 

と駄々をこねるだけのゴミが真似しても・・・・

 

せやかて工藤。彼らはお前には想像もできない努力の人たち。

 

お前の言い分は醜い成功者への嫉妬やで。

 

exactly。

 

 

しかし、これだけは言わなくちゃならない。

 

彼らは底辺で精一杯生きる人達の「苦しい」というか細い悲鳴を

 

 「今は働かなくても生きていける。底辺にいるのは本人の意志」

 

「苦しまないで生きるために努力しない本人が悪い。」という

 

 

自己責任論者の言い分を言い換えたに過ぎない。

 

なんだかんだいって、みんな自己責任大好きじゃないか

 

 

江戸時代の村は、今と大して変わらない自己責任社会だったらしい。

 

それから数百年。まるで進歩していない。

 

人間。特にこの国の人々には、細胞レベルで弱者を切り捨てる非情がインプットされている。

 

「思いやり」 「助け合い」などという言葉は、世間体を気にした偽善でしかないのだ

 

君は、今は生活保護を申請して生きている人もおるで。と返すだろう。

 

しかし、費用は年々引き下げられてるし、不正受給問題の余波で

 

受給条件もべらぼうに厳しくなっている。

 

かくいう僕も、以前の会社でパワハラに心を壊して働けなくなり、貯金も底をつき

 

わずかな希望にすがって市役所を訪ねたけど

 

「自称鬱じゃだめだよ。診断書がなきゃ」

 

「親が生きてるじゃんwww甘えるなゆとりwww」(超訳)で終りだった。

 

君にわかるか?「お前は救う価値のないクズだよ」と認定された時の絶望が。

 

痛む傷口をナイフでえぐられるような日々に耐えながら、こずかいを稼ぎ

 

それすらも税金で徴収される。

 

その金で、生活保護を貰ってる奴が人がいる。

 

中には海外旅行にいき、受給額もギャンブルで使い切ってる奴まで

 

甘えるな。僕だって必死で生きている。

 

実によくできた社会構造だ。救う人間を選別することで

 

弱い奴がより弱い奴を妬むようになる。

 

ただ、誰もそのシステムに文句をつけない。

 

なんだかんだ叫んだって、みんな自己責任が大好きなんだ。

 

どうしよもないから生きている

 もうすぐ日が暮れる。いつもと同じ夕暮れ。昔はクリスマスや正月に独りだと

 

後悔が残ったけど、今じゃ何も感じない。いつもと変わらない生きづらい一日だ。

 

平成最後の〜と言われてもどうでもいい。年が変わるからなんだ?

 

ただ年号が変わるだけ。生きづらさは変わらない。

 

 

もう何もかも嫌だ。死にたい。歯磨きをしている間にすら思う。

 

逆になんで生きてるの?と聞かれたら、死ねないから。と答える。

 

くそみたいな繰り返しの日々を終わらせよう。

 

電車が通過するというアナウンス。特快が迫ってくる。

 

黄色い線の内側と外側、あっちが天国。こっちが地獄。

 

残っている理由なんてどこにある。

 

利き足を出そうとしたき、遺書を書いてからにしよう。

 

なんとなく、そう思った。だからブログを書く。

 

死にたいメーターが振り切れないと、書こうとも思わない。

 

チラシの裏にでも描いてろよ。と言われても、

 

他人に訴えるものがないと、張り合いがない。

 

江戸時代と違って、今はネットで自分の意志を示すことができる。

 

努力の方向音痴のゴミに、希望や救いは与えられない。わかってる

 

でも、黙って消えたくない。

 

どこまで落ちるかわからない不安の中でようやく踏みとどまれた。

 

 命のつきる最後の一秒まで、喉から血が出ても言い続ける

 

 この社会の冷たさが、最後と言えるその日まで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生きる資格が欲しかった。

簿記、ファイナンシャルプランナー、登録販売師、toeic

世の中は資格で溢れている。職につけるかも怪しい時代を勝ち抜くために

必要な資格。

 

でも、本当に必要なのは、生きる資格の一つだけだ。

 

 人生の答え合わせ=生きる価値なし

今年もあと2週間あまり。この一年の間に何をした?

労働で生きるために最低限必要な金を得るために必死になって終わった。

労働。といっても、フルタイムではなく、バイトであり、

週8時間+サービス残業をこなす常識的な社会人からすれば

「甘えるな」とか、「もっときつい人がいるのに、その程度で弱音を吐くな」とか

言われるだろう。

 

顔を合わせた全ての人に言われるから

月の労働時間、100数時間程度でストレスを感じる人間にこの国で生き資格はない。

 

しかし、外国は比べものにならない競争社会と聞く。

 

ここが漂流中に見つけた板切だというなら、爪が割れても、しがみついくしかない。

 

「働きたくねぇ」

 

生きていくにはお話にならない気持ちを扉の中に突っ込んで

固く鍵を閉めたのに、そのドアをぶち破って飲み込んでこようとする

激流葬みたいな社会の中で、なんとか沈まない程度に息継ぎしている。

 

心の底から聞こえる、「このままでいいのか?」という問いに

「溺れ死ぬよりはマシだろ」と答えた。雇ってもらう以外ないだろ。

好きな生き方で死ぬ勇気もないクセに。

 

バイトの内容の段取りをほんのすこしだけ理解し、

理想とは程遠くても、ようやく妥協できる現実に慣れたはずだったのに・・・・

 

 

将来を考える余裕なんてない。

 

今人間がやっている仕事は、将来AIで代行できる。とネットで騒いでいる

ネット社会の情報の多さは素晴らしいけど、その内容は毎日

ロクでもない暗い話題の洪水だ。

 

将来のために投資しなければ生き残れない。

しかし、投資というのは金と時間に余裕のなる金持ちがやる贅沢で

 

この瞬間、生きるだけで必死な貧乏人にそんな余裕はない。

 

一日を乗り切った。それを生きていてもいい小さな自信にしていく。

不満、不安は消せない。選択肢を間違えた後悔もあるけど分かれ道には戻れない。

自分に諦めをつけよう。これでよかったんだ。

 

そんな事を考えていると、終業まで残り15分。やっと帰れると思った矢先

「若いんだから、そんな仕事しててもしょうがないよ。」

 

始まったよ。年長者の苦言が。

 

そんな仕事、そのうちなくなるし、もっと希少価値のある資格をとらなくちゃ

 

 結論からいくと「職業訓練校に行くべき」という話をされた

 

そりゃ、くるもの拒まずなら行ってもいいけどテストに受からなきゃだめ。

 

安定が手に入る保証はない

 

「簡単で落ちるはずのないテスト」というけど

 

その簡単に落ちこぼれまくったから、「そんな仕事」をしているのよ。

 

さらに、申し込みはすでに終了。入校できるのは、来年の4月。

 

しかも、働いていると通えない。なるほど。

 

これを読んでいる無職は、安にバイトなど探そうとせず、職業訓練に行った方がいい。

 

時間を無駄にするだけだ。

 

この一年の答え合わせ。結果、選択肢は不正解。

 

あのままニートでいればよかった。たとえ気が狂っていたとしても

 

もうわかったよ。この社会はとことん雑魚に生きていて欲しくないみたいだね。

 

 

今わかった。濁流に飲まれそうな時、目の前に浮かんでいる

人一人が掴まれるサイズの板切にしがみつき

その板に寄ってきた他人を蹴落とす行為を認めてもらうための

価値。それを資格と言うのだ。

 

知らなかった。ただ生きるにも、社会の許可がいるなんて。

 

 

 

なんでも自動化すればいいわけじゃない。

終業の時間、タイムカードを押して帰り道を急ぐ。

 

 

真夜中に吹いてくる北風が体に染み込む。

 

さっきの事が頭の中でぐるぐると回って、惨めで歩くのも面倒なくらい疲れた

もうどうしようもない。それ以外言葉が出てこない。

 

立ち止まって、止まってもどうしようもないとまた歩く

誰への抵抗かもわからない牛歩を繰り返して駅につくと

 

乗るはずだった電車が通り過ぎていくのが見えた。

 

避けられない現実を思い知らされたとき、不幸がなし崩しに襲ってくる。

しみったれたやつにはそれが、この世から退場する理由になり得る。

 

それがどんなに小さな不幸でも。

 

新幹線アタックをとめるテリーマンの真似してみようとした

その時、スーパーの看板が目に入った。

 

最後にあったかいコーヒーを飲もう。レジに行列ができている。

一日もあと数時間で終わりというところでなぜこんなに?

目の前を埋め尽くす頭の先に、必死でレジをうつ人たちが見えた。

 

頑張ってるのはわかる。しかし、ぶっちゃけ、セルフレジの方が簡単ではないかと

思ってしまう。いずれ、彼らの仕事も無くなるだろう。他人事なのに悲しくなった。

 

順番待ちにイラつき、缶ビールをカゴ一杯にいれた 背広のおっさんにしょうもな。

とイラつく。

 

缶コーヒー一本しか買わないやつが何を言う。

 

レジは50代くらいのおばさんで、よく見る人だった。こういう時間は

忙しくて、釣り銭をまちがえたり、ごましたり、煽ってきたり、

 

缶コーヒー一個かってお客様気取りのやつが来る。大変な仕事だ。

 

僕の番が回ってきた。事務的な会話を済ませる。

人生の最後に口にしたものが、缶コーヒー。

クソみたいな人生の最後にふさわしい。

 

会計が終わった。そのとき、オバハンが「お疲れ様」と言ってくれた。

いや、別に前のサラリーマンにも変わらずに同じことを言ってたけれど

 

その瞬間に、小さな明かりがついた気がした。

 

このまま帰ろう。という気持ちになった。踏んだり蹴ったりの

世の中で生きるのに絶望している人間は、形式的な労いでも、生きていこうと

思うものだ。

 

それが、どんなに小さな希望でも。

 

止めるはずだった

在来線を待つホームはいつもより待ち人が多い。僕の隣にいる作業着のおっさんの

イヤホンから、銃声のような音が漏れる。最近のスマホはすごい。

 

FPSが手のひらに収まる。関心していると、画面の向こうで血が飛び散り

ゲームオーバーの文字が浮かんだ。

舌打ちをするおっさん。そのとき、ホームに響いたアナウンスが、

人身事故で電車が2分遅れていることを知らせる。

 

おっさんは再び舌打ちした。この人にとって、他人の命は、ゲームのキャラ

程度でしかないのだ。

 

ただ、このおっさんはわかっていない。もし、スーパーのレジが完全自動化されていたら、遅れが2分どころではすまなかったことを。

 

謝罪のアナウンスのあとに、電車がやってきた。すしずめの車内で、おっさんのズボンが随分汚れていることに気づいた。

よく考えたらこのおっさんだって、この時間まで働いて、クタクタなんだと思うと

少し、悲しみが和らいだ気がした。

 

ただ、生きるということ

 

前髪がうるさい。髪の毛を切らなければならないことを

思い出す。しかし、美容室に行くのは面倒だ。

有名な所に行った事はあるけど、雰囲気がお呼びじゃない気がするし

料金が高い。

 

数ヶ月に一度通うと考えると、まゆをしかめるものがあった。

 

どうにかできないか。とうんうん唸っても解決はしない。外に出よう。

最近自転車にのっていないな。と気づいて、あてもなく走っていると

 

小さな看板が目に入った、赤と青の縞がぐるぐると回るガラスの管。

懐かしい感じがする床屋さんだった。ここに行くべきだ。という直感があった。

店員の第一印象は悪くない。オシャレなおっさんといった感じだ。

 

美容院の場合、店員との会話が取り調べのように感じるけど、不思議とそんな感じは

なかった。店にはおっさん一人で、よそから移ってきたことを知った。

 

こんなさびれた町ですいません。と答えると、でも、僕ここ好きですよ。と返ってきた

 

形式的な回答でもいい。自分の生まれ育った町が褒められるのが嬉しかった。

 

床屋というと、スポーツ刈りにされるとう先入観があったけど、そんなことはなかった

 看板にあった料金は、都会の半額だけど、もっと金を出してもいい気がした。

僕の賃金がもう少し高ければいいのに。

 

 

顔剃りしてもらう間に、子供の頃によく通っていた床屋を思い出して

そういえば、あの頃は途中で寝ちゃって、おじさんに起こされていたこと

頭にヘアトニックをぶっかけられ、頭皮を襲う衝撃の清涼感に泣き出してしまったことを思い出した。

 

そんなことを思い出しすとなぜか楽しくなった。小さな店だったけど、またきたいと

素直に思った。

 

生きる資格が欲しかった。

 

あの頃、なぜ楽しかったのか。ただそこにいるだけで、生きていてもいい。と思えたからだ。

それは過去を美化しているだけと言われたらおしまいだけど、そんなことはない。

根拠もないけど、世の中は確実に生きづらくなっている。

 

少なくとも、10年前は、こんなに資格習得の学校や通信教育の広告が溢れては

いなかった。

 

いつの間にそこにいるには資格がいりますよという世の中になったんだろう

 

僕はただ、生きる資格が欲しかっただけなのに。