キリギリスはなぜ死んだ?

社会に、いらね。と言われた奴の最後のあがき

休み明けのさびしさについて

学生の頃、8月が終わらなければいいと思ったことないかい

別に夏休みらしい青春がなくてもいい。

ただ学校に行かなくていいっていう時間がこのまま続けばいいと思ってた

携帯の画面に31日の日付が映った時、なんといったらいいのかわからないけど

さびしくなった

何がさびいしのかわからない。でも今日になってあの日と同じ気持ちになった時

どうしてもそのままにしておくことはできないと思った、

今更思い出してきたこれは一体なんなのか、どうしても気になる

今回は休み明けが迫ってくる時に訪れる不安とさびしさとについて。

 

そもそも何がさびしいのか

一行目に書いた通り、絵に描いたような青春なんてまったくなかった

友達も一人もいなかった。なので、いわゆる「休み」とつく行事には

思い出なんてない。おいおい、いきなり暗いカミングアウトしやがってだって。

しょうがないだろ、事実なんだから。それとも、友達とプールいって海いって

ガールフレンドとアバンチュールみたいなのを書けというのかい。

素人のおっさんの頭の中にある青春群像劇を見せつけられるなんて、地獄じゃん。

どうだい。まだ他人の不幸の方が喜べような感じしないか

そう、今回は「休み明けのさびしさ」についてだ。

つまり、「休み中の行事について」ではなく、より純粋な「休みそのもの」について

考えていきたい。

そう。青春などなかった奴には休みが終わろうが始まろうが、ぼっちのまんま変わらないだろう。と思うだろう。でも違う。

むしろぼっちにはとって「休み」は救いなのだ。少なくとも学校、もしくは職場に

通っている間は、周りの人間たちの寄り合いやコミュニケーションする姿を否応なく

見せつけられることによって、ぼっちである現実を自覚しなければならなくなる

そう例えるなら牢獄の中にいるようなものだ。しかし、「休み」の時は違う

確かに、常人たちは休み中も連絡を取り合い、ぼっちにはできない青春をエンジョイしているであろう。しかし、その青春はぼっちには見えない。ぼっちに自覚できない

なら、なかったことにしてしまえる。そう、ぼっちの部屋にいるのはぼっちだけ。

他人は存在しない。比べる対象がいないからこそのパーソナルスペースの確保。

そこにぼっちにとっての救いがある。

つまり、「休み」中はぼっちであることを忘れることができる

むしろ「ぼっち」が「ぼっち」であることを認識しないことによって「ぼっち」はいなくなる。

もっと踏み込んで言おう。

「休み中」は「誰もがぼっち」であり、「誰でもぼっちじゃない」のだ。

その終わりこそ「休み明け」だ。例えるのなら戦地から帰ってきた兵士が

戦場に戻っていく状態。ブラックホークダウンのラストシーンのような哀愁

つまり、休みが終わることのさびしさというのは、平和の終わりに対しての

さびしさじゃないか。

今日外に出た時に通りを歩いていく人たちの背中を見ているとなぜか悲しくなった

離れていく人の一人一人に人生がある。これから仕事に行く人もいるだろうし

休みの終わりという人もいるだろう

明日からまた日常が始まる。全てが普通に戻っていく。何もなかったように

そしてまた、ぼっちはぼっちであることを思い知らされる。

休み前とは明らかに違うクラスメイトたち、日焼けした肌、距離感の近い男女

休み中にいった場所の写メを見せ合うリア充たち、明らかにぼっちとは違う空間に

いるかのような感覚、まるで四方八方を敵に囲まれているようだ。

そう、ぼっちといは社会空間という戦場で孤高に戦うsoldierなのだ。

ベイビーボーイ私はここにいるよね。それはソルジャだろうが、青山テルマは元気か。

ちゃんと飯食ってるか。なんでよりによって淋しくなるような曲を狙い撃ちしておもいだすんだよ。離れた距離を愛で埋めようとした経験なんてないだろ。

ようつべのコメント欄には、「当時を思い出す」とかリア充たちがひしめき合っている。いこう。じきここもリア充にのまれる

ふとナウシカのおっさんを思い出してしまった。ちなみにナウシカはちゃんと見たことない。長いから。

またどうでもいいところへ意識がぶっ飛んで行ったな。何を話していた。

青山テルマ 現在で検索したらイメージが全然違ったとか、そばにいるねの

アンサーソング 「ここにいるよ」がリリースされていた。とか要チェックや!

除けよ彦一しっかりしろ。すぐそうやって影響を受けるのが悪い癖だ。また散らかり出したな。どうやって軌道を修正する気だ。

つまりぼっちはソルジャーだ。社会という戦場で、常識という大義と戦い続けることで

ぼっちたちは傷ついている。その傷を癒す期間が「休み」

特にこの寒い時期は朝の目覚ましに恨みを感じたり、社会の中での自分のあり方に

頭を抱えたりする。それも戦いだ。行事など関係ない。さみしさの正体は人生の現実を

目の当たりにするからだ。でもぼっちである現実からはどうあがいても逃げられはしない。いつか必ずぼっちであるということを思い知らされる。

ならこっちから向かっていこうじゃないか。

学生より社会人ぼっちは不自然でなくなることもある。※個人差があります

 

いこう。新しい1日が始まる。