キリギリスはなぜ死んだ?

社会に、いらね。と言われた奴の最後のあがき

そえ木

雨に濡れた植木を見ている。見栄えの良いように温かみを感じられない風景を

薄めるために、申し訳程度に植えられた木に吹きさらす雨が跳ね返り、その場を

温めているように感じる。

 

最近よくイライラするようになった。いや、いつもか。ただ、前と違って

気持ちの反らし方を覚えた。

二、三年前のブログを読み返してみると、雨がふっている、死にたい。

真逆のことが書いてあった。

今も生きていたい気持ちは特にないし、この世の無常を嘆くのを間違いだとは思わない

ただ、都合の悪いことでも、別の何かが見えて来る。

とにかく、落ち着くことだ。とにかく、よく見ることだ。なににしても。

 

これがどっかの仙人の言葉だったら、意識高い系のブログに乗ってるんだろうな。とか

思いながら、幹を見ていると枝の端々が竹の棒に結んである。

この木は、添え木に沿うようにして成長するように仕組まれているのだ。

人間の思い通りになるように、まっすぐ、見栄えがよくなるように。

そもそもこの木は元から植えられていたわけではなく、トラックで運ばれてきた。

誰かの都合で運ばれて、また誰かの都合で、自分の意思とは関係なく、生き方を

押し付けられ、気がつけば動けなくなっている。

でも、それは素人の意見。植栽の専門家からすれば、木を守る理由があって

やっているのかもしれない。

ただ見た目が気に入らないからと言ってやじるようでは、結局見栄えを気にする

奴らと同じ、素人のあさじえに専門家が突っ込む。ツイッターではよくある話だ。

 

誰かに寄りかかっていれば、安全に生きていられる。失敗せずに。

でも、人に指図されるだけの生き方は、丸太にくくりつけられているように窮屈だ。

ポカポカしていた景色が、急に味気なくなっていく。

やはり深く考えるとろくなことがない。

 

それ以上愚痴るのはよして、ただ、雨の音だけを聞くことにした。